感情の扱い方について | Gwenhwyval(グウェンフウィファル)の舞台日記

Gwenhwyval(グウェンフウィファル)の舞台日記

鑑賞は生中心主義。自分の眼でライブで見たことを中心に、語ろうと思います。

私たちが子どもの頃の大人…親や先生たちは、今の大人と違う。

私たちの親や先生たちは、今の大人のように

「どう言ったらこの子が、こちらの言うことを受け入れてくれて向上するか」

なんて考えてなかった。←すみません、多分です。

子どもが思いどおりにしなかった、面倒なことをしでかした、自分をいらいらさせた…そんな「自分の感情」の赴くまま、叱り飛ばしていたと思う。

そう、八つ当たりってやつだ。

ついでに叩いたり、いま叱られてる事案とは関係ないことで、思い出したように罵ったり。


ずっと以前の想い出。

私は大学時代の友人とまだ小さいその息子と3人で、新宿西口の地下街を歩いていた。

通路に何かが落ちていた…まあ、大きなゴミのようなものだ。好奇心の塊のその息子は拾おうとした。

私の親世代の大多数だったら、

「拾っちゃダメ!汚い!」

「ほんとにあんたはいつもそうやって、キョロキョロして落ち着きがない!」

とか怒鳴ったと思う。

でも、友人は違った。


「◯◯ちゃん、それ、誰かが落としたんだね。落としたの気づいて戻ってくるかもしれないから、そのままにしておこう」


と、にこやかに言ったのだ。

私は心底驚き…友を尊敬するとともに、こういう風に育てられたかったとしみじみ思った。

(いやまあ、うちの親だっていい親で、よく育ててくれたとは思いますが、こういうところが本当にダメだった)

この友人は当時はコンピュータ会社にいたが、のちに教育者になった。


でも、仕方ないと思う。私たち世代が幼かった頃の大人は、そのまた親世代にそういう風にしつけられていない。本人たちも躾という名の八つ当たり、感情の制御のできない大人たちに育てられてきたのだろうと思う。


ひとは、自分がされたようにするのだ。

他に見本がないのだもの。他の作法を知らないのだから。

その循環を断ち切るには、絶対的権力を発動して方向転換しないと、まずは無理。

そのときの自分の「感情」ではなく「目的を達成するために」どう言うか。相手のために。


「良識ある人間だったら、されて嫌だったことはしない、自分の代で断ち切るのだ!」

と仰せのかた、素晴らしいなと思います。

…が、私は、人間がもつ徳や聖性を信じるとともに、その弱さも確信している。たとえ理屈上やるべき方向が分かっていたとしても、環境に飲み込まれて保身を優先してしまうことだってあるだろう。

だから、親の言ったことやらなにやらを責めるつもりはない。


今は全く別の教育観が支配しているように思う。

否定せず、自主性を重んじ、目的に沿って手段を考える。嗜める際の感情はきちんと制御されるべきもの。

世の中は変わったものだ。


なんですけどね!アメリカのナントカ大学の最新研究によると

「誉めて育てる」

のばかりがいいのではないらしい。

誉めすぎは「自己肯定感」というよりも「自己愛」の方にいっちまうんだそうだ。

いやはや、ほんとに、人を育てるってわからないことばかりですね。