教員免許は取得したものの、教職へのこだわりはほぼなく、民間企業で仕事をしてきました。
そして職業人生を全うしようかというころ、縁あって「教育」という名前を冠した部署へ異動…というか職場替え。とはいっても現場ではなく企画側です。
職務上、現在示されている国の教育方針が、どれほどに自分が受けたものと違うのかを知り、驚くやら「より難しく複雑になってるなーたいへんだー」と思うやら。
なにしろ自分に子どもがいませんので、変容ぶりをなんとなくの噂でしか知らなかったのです。
いろんな省庁が「◯◯において望まれる人材」という定義をしています(◯◯というのは当該役所の管轄分野)が、そのほぼ中身は同じで
・自ら課題を発見でき
・課題をじぶんごととして内在化でき
・異なる価値観のひとと共有でき
・最初からひとつの正解を求めず
・議論を経て合意形成ができる
(正確な引用ではありません、私てき解釈)
みたいな感じです。複雑化する社会に対応して、自分で考える力を養う(=丸暗記教育への反省?)のが狙いかな。
だから小さい頃から大人みたいな課題抽出グループワークとかプレゼンテーションの練習があって、そんな動画もよく見ますけど、私なぞ、全く知らなかった光景がそこに広がってます。すごいー。
ときどき、会社の男性たちが「いやー今の子は頭いいねー」なんて賞賛半分恐れ半分、みたいな口調で言ってます。けどね、急に人間の知力が増すわけなんかなく、会社っぽい分析やら発表やらの仕方を一足先に習ってきてる(だけ)だと思う。おじさん、冷静になれ。
そういう人たち…自分達とは違う教育を受けてきた…なんだ、を絶えず認識せねばなーと胆に命じてます。
セクハラ、パワハラなんかに関しては、会社は社会的炎上が怖いので(頭の古い)マネジャー層に繰り返し教育を授け、若い人にはなんならこわごわ対応してますが、この、彼ら彼女らがこれまで受けてきた教育、育てられ方全般への理解は全てに必要だなーとひしひし、感じる。
ナンバーワンではなくオンリーワンであれ。
自分らしく生きよ。
叱責でなく「こうした方がもっといいよ」的指導。
(まあ、全員がこんな風に育てられてるとは断言できませんが、風潮として)
そんな子たちを迎える、その後の、さまざまな教育機関。高校やら高専、専門学校やら各種学校やら、もちろん大学も。
教育する側(先輩も含む)は、自分の経験とかではなく「こうあるべき」への固執でもなく、「こんな子たちなのだ」という許容を持って受け入れ、育て、導くべきなんでしょう。その訓練必須。
だって、そういう風に育てると決めたのは大人たちなんですから。
イヤ、自分は国の方針なんて知らん、わたし決めてないと仰せの向きもありましょうが、国民の代表(ま、国会議員ですけど)が法律や基本方針を決めてますし、実行に移す細かい政策も審議会やらなんやらでながーく議論してます…民間では考えられない慎重さで。
それも知らない…と言われると、もはや民主主義の否定…どうすりゃいいの…。
教育は、教育機関が切り変わることによって「方針ぶつ切り」になってはいけないと思う。受けとるのは、生きているひとつづきの、ひとりの人間なんだから。
余談です。
私が夏シーズン一番見ていたTV番組は「最高の教師」(秋は大奥の予定)でしたが、最終回の決め科白は
「最高の教師は、生徒だった」
でした。
もはや、教師は教える側ではないのね…。ともに(何かを)発見する、平等な人間なのだ。
いやはや、なんと時節にあった問題提起だろう。これだからTV番組ってあなどれない。
(いやまあ、それにはいろいろ議論もあるでしょうけど…その議論が大事ってことでもある?)
教員経験のある現職場の同僚に、なぜ教職につかなかったのかと聞かれ、
「うーん、なんか(失礼ごめんなさい→)上から教えるのが苦手というか、教えるよりいつまでも教えられていたいというか…」
と答えた。
そしたら
「教師に一番向いてる人は、いつまでも学び続けられる人だよ」
と即答されました。これって論破?
うわー私、めちゃくちゃ考え違いしていたかも…。人生まだまだ、知らないことばかり。大半のことを知らないうちに死んでいくのだろうなー。
この言葉を知っていたら、私は教職を選んだだろうか。それともこの困難なる職業を避けただろうか。