(上につながる記事です)

 

「直感」って大事じゃない?という話。

 

直感は、感覚的なはたらきのこと。その「感覚」をもたらすのは、体の「感覚器」です。

 

感覚器とは、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚など、いわゆる「五感」を感じとる体の器官。ということは、自分の感覚を研ぎすますには、その五感をきちんと機能させる必要があります。

 

そして、五感をきちんと機能させるには、“自分の体を調和した状態にしておく”ことが大前提、という結論に行き着くのですが……それはなぜかというと。

 

直感のはたらきの、もとのもとを辿ると「体」が見えてくるからです。

 

話がまわりくどいのでまとめると、

  • 直感は、これからの時代に大事なスキルでは?
  • 直感を鍛えるには、自分の感覚を研ぎすませろ
  • 感覚を研ぎすますには、自分の五感を機能させろ
  • 五感を機能させるには、自分の体の状態を整えろよ

ということでしょうか。

 

(この話はもう少し深めたいので、またの機会につづきを)

 

 

(上につながる記事です)

 

少し前から「直感」について考えることが多くなりました。

 

直感とは。

 

コテイカンネンとか、ヘリクツとか、ウワサバナシとか、確かなようで不確かなものに惑わされず、「これはこういうことだな。理解した」と、物事の“本当”を瞬時につかみとる能力だと思うのですが、そういうスキルはこれからの時代、とても大切になる気がします。

 

直感は、感覚的なはたらきです。

 

ということは、自分の直感を鍛えるには、自分の感覚を研ぎすます必要がある。ということになりますが、ただそうするにはどうしたらよいのでしょう……。

 

(つづく)

40年来の推し、山下達郎さんがゲスト出演したラジオ番組を聴きました。

ヤマザキマリラジオ|NHKラジオ第1

 

連休後半の朝にはカロリーが高すぎて、2時間ほど摂取して疲れました(もとい超絶楽しかった笑)。

 

さて、過去のアルバムが、カセットとレコードのダブル・フォーマットで復刻発売された、たっつぁんの話を聴いていて、何となく思ったこと。

 

「アナログ」と「デジタル」について(どちらが良くてどちらが悪い、という話ではなく)。

 

デジタルは手軽で便利でよいものだけれど、アナログの流れは消えるどころか、強調される傾向にある。それってやっぱり「人」というものが、生身の「体」を持つ存在だからなんですよね。

 

人の感じる喜びは、(おそらくほぼすべて)この体の「五感」を通してもたらされます。視覚、聴覚、味覚、嗅覚、そして触覚。それらがあるレベルで満たされれば、人はたいがい機嫌よくいられるわけです。

 

その五感を満たすには、必ずしもお金が必要なわけではない。というか、お金だけではどうにもならないはずなのですが、欲が欲を呼び、より上質で上級な「喜び」や「満足」を得るには、たくさんお金を払わなければ!というテーゼが発生したわけで……とまあ、そんなことはさておいて。

 

生まれたときからデジタル化された社会で生きてきた若者たちが、アナログLPから聴こえる「音(音楽)」に好意的な反応を示した結果、中古版にどんどん高値がつく現象に対して、当時の「音(音楽)」を本家本元がリマスターして新譜版として世に出すというアンチテーゼで応えた我が推しなのでした。

 

相変わらず面倒くさいけど、興味深い人です(つまり好き、苦笑)。

 

直感と直観。

 

直感は、英語で(an)intuition?

あれこれ推測したり、「今までそうしていたからそれが正しい」というような固まった考えにとらわれたりしないで、あくまで“感覚的”に、かつ“瞬時”に、その物事の真相をとらえること。

 

直観は、英語で(an) instinct?

あれこれ推測したり、何かの評価基準に照らして良し悪しなどのジャッジを加えたりしないで、あくまで“直覚的”に、つまり直接に感じて、その物事の本質をとらえる認識能力(哲学用語)。

 

直感は、五感をもとにしたはたらきのこと。

 

直観は、熟した知性をもとにしたはたらきのこと。

 

AI技術に追い立てられる、この時代。どちらの能力が、内なるエネルギーが、人間の役割として残るのだろう。

 

そんなことを考えた連休のはざま。仕事する前の朝です。

 

もう変わりたい。自分を変えよう。

 

という気持ちになっても、なかなかできないことはあります。そんなとき、変わることをじゃまする「原因」がある気がして、それを見つけたい気持ちになります。

 

そこで、左を見たり、右を見たり。上から下まで見渡して、この人のせいかも。それとも、あのことが悪いのかしら。と、四方八方を探したり……だけど。

 

もう変わりたい。自分を変えよう。

 

と思ったら、まずはいったん立ち止まって、自分の内側に意識を向けてみる。でもそれは「原因」は自分にあるから。自分が悪いから、ということではないのです。

 

日頃なにかを思ったり考えたり、またそれをもとに行動したりするとき、お決まりの様式にあわせてそれをしている気がするんですよね。こうすればうまくいく、という“成功パターン”のようなものに……。

 

その染みついたパターンとか癖とか、そういうものを無くす、止める、手放す、リセットすることを、まずやっておく。それをしないまま変わろうとしても、固定化されたパターンや癖にすぐ引き戻されて、結果としてジタバタしてしまう気がします。

 

変わりたい。自分を変えよう。

 

と思って、あれこれ試してもうまくいかないときは、流れをじゃまする「原因」を外に探さない。ましてや、うまくできない自分を責めない。


自分の中にある思考パターンや思い癖を手放すことに、まず意識を向けたいと思っています。

いつもの朝の番組の、今朝の特集が「減塩」でした。

 

減塩を続ける者としては、あのように大きく取り上げられるのは、正直嬉しい。けれど思うのです。あの言葉のままでは、取組の広がり(あるいは浸透)には限界があるな、と。

 

減塩。の代わりに、節塩。という言い方もあるようです。ただどちらにしても、塩の味を減らしたり節制したりすることで、体にはよいかもしれないけれど、ふだんの食事の喜びをダウンさせる印象が残ります。

 

減塩を続けてきてつくづく思うのは、食のおいしさは、塩の味だけで作られるものではない、ということ。

 

甘い味、酸っぱい味、苦い味、そして、うま味。塩味以外のこれら基本の味のほかにも、定義しきれない“おいしい味”を、わたしたち人間は作り出すし、また味わっている、と思うのです。

 

だから、活塩。減塩ではなく、節塩でもなく。少ない量の塩を活かして、ほかの味のよさを引き立たせる料理法。という意味で、これからは「活塩」という言葉を使おうかな。と、ふと思いました。

 

そんな4月のよく晴れた朝です。

わたしは単純な人間です。

 

自分のことをそう言うのって、ちょっと抵抗ありますよね。

 

昔、家族に言われたときは、わたしをよく知る人が言うなら、そうなのかな。と、納得しました。まあ自分としては、もう少し物事を複雑に考えているつもりでしたが。笑

 

でも今は、単純な人間でよい。むしろ、そうありたい。と思っています。

 

なぜかというと、単純な人間とは、すなわち、おめでたい奴。ということではなくて、シンプルな性質を持つ者。あるいは、混沌としたこの世の出来事をシンプルに解釈して生きる人。という意味で受け止めているからです。

 

今の時代、物事を複雑にとらえようとしたら、いくらでも複雑にすることができます。でもこんな時代だからこそ、いたずらに考えを複雑なほうへ流さないよう努めたい、と思うのです。

 

だから、よく寝て、おいしく食べて、笑って生きていく。単純な人間、上等です。これからも、背筋を伸ばして、シンプルでありたいと思います。