市田くんがいなくなってからというものの、僕は市田くんが初任給で買ったというやたら寝心地の良いダブルベッドで寝ていたが、帰ってくると聞いてさっさと布団を干しホテルもびっくりなほど綺麗な状態にしておいた。市田くんは自分のテリトリーが動物並みにはっきりさせたがるのだ。僕が使ったと知ると例え金づるでも嫌味な事を言う。
もうすぐ2学期が始まる。
僕の時間が進む。市田くんは起きた。市田くんの時間も進む。
市田くんと僕は一人の人の死で時間が止まっていた。
市田くんはまたお芝居を始めるだろう。たくさんの脚本の中から一本選んで。
僕はまた学校に行く。学校に行って真面目な学生っぽく振る舞う。
やはり市田くんの始まりは夏。
もうカレンダーは秋になりかけだけど。
夏休みが終わる頃に市田くんは市田亭に帰ってきた。
「…おかえり。」
「おう。」
元々が細かった市田くんはさらに細くなっていた。半袖から見える腕がギスギスした骨っぽくて痛々しい。眼窩はよりいっそう落ち窪んで、いかにも病んだ人のようだった。
よく戻って来ようと思ったな、と悪態をつく気にもなれない。市田くんは哀れが具現化したようだった。
麦茶をグラスに注ぎ、市田くんへの労いの気分で渡す。市田くんは首を横に振り、ベッドの上でじっとしゃがみ続けていた。一向に僕を見ない。
僕はそんな市田くんにちょっとずつ、質問をしてみた。
「家は、やかましかった?」
「変わらずな。」
「おばさんも?」
「母さんは、よく分からん。ぎゃあぎゃあうるさかった。」
「時々は起きたの?」
「うん。」
「今も悲しい?」
「なんで?」
「え、ほら、シノコさんが…。」
「全然。」
「え。」
「あの件に関しては、もうどうでもいい。」
じゃあなんで寝続けたの、と聞きたかった。
なんで悲しく無いの。
なんでどうでもいいの。
君のじゃないか。
どんなに残虐な事をしてでも捉えておきたかった人じゃないか。
気づくと手を振り上げていた。グーで。
でも僕はその手をそっとおろす。
喉まで出かかっていた言葉があったのだ。
「君のせいじゃないか。」
と同時に「僕のせいでもあるじゃないか。」
二つの言葉がぶつかりあうと、現実にはただ人が一人死んだ事実だけが残る。人の死って、そんなに軽いものだっけ。
彼女が死んだ。事故だった。
でも僕はその死が体に染みついている。
でも現実はあまりに淡々としていた。一番近くにいた市田くんは加害者だし被害者でもある。僕だって。
しゃがみつづける市田くんをよそに、僕はあるものを取り出す。おかきの缶。綺麗なファンレター。いっとう最初に来た手紙に書かれた電話番号を携帯にメモする。
夏休みが終わろうとしている。市田くんの時間が動き出す。僕の時間もまた始まる。
市田くんと僕と、夏の終わり。