前回は、統治体の露出が増え始めてから疑念が強まったと書きましたが。


では、そうなっていなければすんなりJWライフを楽しめていたのかというと、そんなこともありません。


というわけで今回のテーマは



 エホバの存在を実感できなかった



です。


「嫌いだった」「好きになれなかった」とあえて書かなかったのは、それだけ気持ちが「無関心」に近かったからで。

そもそも存在を実感できないから、好きとか嫌いとか感じようがない、というのが正直なところでした。



親はよく言っていました。



「仕事を失って、行政から税金免除できますという案内の葉書がくるほどに、困窮した時期もあった。でもエホバに必死に祈った結果、兄弟姉妹が食材やお金をくれたり、仕事を紹介してくれたりしたんだ。

おかげでなんとか仕事も見つかり、税金も免除を受けず満額払えたんだ。

で、その時期に「今月分の寄付が出来ないかもしれません」と祈ったら、5000円札が偶然棚の隙間から見つかり、寄付できたんだ。」



親という一番身近な人が、困窮しているところを聖霊により助けられた経験をよく聞いていたため「必死に祈れば、エホバは本当に助けてくれるんだなぁ」と、なんとなく思ってはいたものの。

「100聞は1見にしかず」という諺通り、自分がその「聖霊の助け」を実感できないことには、本当の意味でエホバを身近に感じることなどできないわけで。



はっきり言って、エホバに助けられたことを実感したことなど、1度たりともありません。

学校での試練や、個人的な悩み。いろんなことを祈りましたが、まるで聞き届けられた実感がありませんでした。



それもそのはず。

JWは「祈るだけではダメで、祈りに調和した行動を取らないと祈りは聞き届けられない」とも教えているので、いくら必死に祈ったところで結局は自分も動かないといけないわけです。

しかしそれでは、聖霊の助けなのか自分が頑張ったからなのか、判断のしようがありません。


せめて自分が直接でなくとも、誰かが助けられているところを「目に見える仕方で」実感できるのなら話は別ですが、そういうこともないですし。




やはりそこは疑問が多く集まるポイントだからか。組織は先回りしてこのような説明をしています。




『「聖書時代のように目に見える奇跡が起きたら信じる」というのは信仰の欠如だ。


聖書時代は、識字率や就学率が低く、情報伝達技術も今より劣っていた。だから、目に見える分かりやすい仕方で奇跡を行わないといけなかった。

しかしそんな風に生で奇跡を目撃した人でさえ、皆がエホバの崇拝者になったわけではない


聖書を読めば、エホバが信頼できると分かる。

そんな信頼できるエホバが書いてるんだから、聖書は信じられる!


だから、当たり前に教育を受けられ、自由に聖書を読める現代では、奇跡を行う必要がないのだ!』




言わんとすることは分かるものの。

それならば


現代でも貧しく就学率の低い国は存在しますから。そういう国では奇跡が起きないとおかしいわけですが、そんな話は聞きません。


それに


その「奇跡」というのも。

水を葡萄酒に変えるだとか、海を割るだとか、手品ショーみたいなものだけを指す言葉ではないはずです。


例えば


ある兄弟が失業して。

仕事が見つかるよう祈りつつもあえて求職活動を全くせず、失業中の今だからこそと、時間を全て野外宣教や会衆のボランティアの時間に充てて過ごしたとします。

世俗の仕事よりエホバを第一にしたところ、ある日知り合いから仕事を紹介されて再就職できました!

となれば。これだって立派な「奇跡」です。


しかし


「祈りに調和した行動」を取らない限り祈りが聞かれないのならば。

野外宣教をいくらやったところで、結局ハローワークに行かないと就職できないということになり。


「本当に祈りが聞き届けられるのか、私を試せ。」


なんていう威勢のいいことをエホバは言っていますが。

口ほどにもないどころか、何もしてないじゃないか、という話になるわけです。



そもそも


上の例えを奇跡だと言いましたが。

これは、十分起き得る話です。


なぜなら、そのためにJWには「会衆」という自助グループが備えられているからです。

仲間が困窮していれば差し入れをし、引っ越しや買い物、掃除などを手伝い、職を紹介したりと。あらゆる援助をしてくれる成員達が身近にいます。

そうした人達が1mmも優しさで動いていないとは思っていませんが。

仲間を助ければ「エホバに喜ばれる」から

仲間に何かしないと「エホバにダメ認定される」から、施しチャンスを虎視眈々と狙っている側面もあるのは否定できないでしょう。


そしてそんな兄弟姉妹の働きは「エホバのおかげ」ということになっていくのです……


このように、JWの仲間内で「エホバだわぁ〜」と言われるような話は、よくよく聞くと「仲間が助けてくれた」「自力で頑張った」「偶然上手くいった」のどれかに当てはまるわけです。


先程の例え話の兄弟も、もし会衆の誰も仕事を紹介してくれないなら、求人誌一冊開かずに仕事が見つかるはずがありません。


上で紹介した私の親の経験も、まさしく会衆の仲間に助けられたという話に過ぎず。

「それ、エホバのおかげじゃなくて兄弟姉妹のおかげでは?」

と、現役時代ですらも言いたくなったものでした。




そしてそのように、人の手柄を横取りして威張っているだけなのに

我々人間の失敗には非常に厳しいのです。




私は2世ですから、将来楽園に行くにはどれだけの試練を耐え忍ばなければならないかという話を小さい頃から日常的に聞かされていました。

その世界観しか知らないので、当然「そういうもん」としか思っていませんでしたが。


JWの偽りを確信した後、改めて考えると思います。

こんなので救われるの、無理に決まってない……?


まず、この世でJWとして生きるだけでも大変なのに

さらに辛く厳しい大患難を耐えなければなりません。

その試練の中には、投獄や拷問、村八分、連日のメディアからのバッシング等、想像を絶するものが含まれると出版物で繰り返し強調されていました。


この世で耐える試練が、人と競争するほどの辛さなら

大患難の試練は、馬と競争するほどの辛さだ、なんていう話を聞いたことがありますが。

かのウサイン・ボルトですらも馬には勝てないでしょうから、つまり、人間には「不可能」なレベルというになります。


そんな試練もなんとか乗り越え、ハルマゲドンを通過した猛者達に待ち構えているのが「千年統治後の最終試練」で、その試練では1000年かけて完全になった人すら大量離脱するそうです。


そこまで乗り越えないと救われないというのだから。

もう、エホバは人間を救う気無いだろ

としか思えないわけです。


しかも


その試練を人間に課す理由が、自分の作った天使が反逆したことが原因だときたもんだ。

「全能者」が創造したはずの被造物が「不良品」だったのが悪いのに、なぜ我々がここまで苦しまなくてはならないのだという話です。


「自分がやったわけでもない事で人生が決まるのはおかしい」とJWは輪廻転生や運命論を批判していますが。それならば宇宙主権の論争も同じことではないでしょうか。





YouTubeでも観られる動画に、こんなものがありました。


ある少年の父親が信者になる前に亡くなったが、父は天国に行けたのか。信者にならなかったから地獄行き、そうなっていないか。

涙ながらに悩む少年に、教皇が答えます。


「君のような素晴らしい子を育て、洗礼を受けるまでに導いたのだから。そんな人を神が遠ざけるはずがない。神は君の父を誇りに思っている」



このように。



本来神様は、人に「無条件の救い」を与える存在であるべきです。

信者でなかったから、役職についていなかったから、◯◯時間伝道しなかったから、集会に遅れがちだったから、迫害に耐えられなかったから、、、

このような理由で人を裁き、場合によっては滅ぼしてしまう。

そのような「条件付きの救い」しか与えることができないなら、それは真の神ではありません。



銃を突き付け

「君が僕に従うなら僕も優しくするよ。でも、君が従うのをやめた時、僕はいつでも引き金を引けることを忘れないでね。」

こんなことを言う人間がいたとして

「従えば優しくしてくれるんだから、従えばいいだけじゃん」

と納得できるでしょうか?



キリスト教の根幹にある考え方として「自由意思」というものがあります。


従うか従わないか、自分で意思決定できる自由が与えられた上で、従うことを選ぶ。

だからこそ「従う」という行為がより徳の高いものとなり得る。

我々人間が試練に遭いながらもエホバの主権を擁護することが、サタンの提唱する「結局、利害が一致しないと神に従うメリットないじゃん」という説への「答え」となる。そう言っていますが。


従えば楽園、従わないとハルマゲドーン!


というのは「利害」ではないのでしょうか。


それでサタンは納得するでしょうか。




このように、そもそもJWのやり方では、エホバの主権を立証することなど不可能なのです。




その上さらに




エホバはここまで「生殺与奪の権」を掌握しておきながら、自分に「親しみを感じろ」と言っているわけです。

自分を「愛ある父親だ」と思え、と。


だとすれば。


子供の限界を超えた課題を与え、できなければ罰する。

そんな父親だということになります。




子供の頃から集会に通わされていた身として、疑問で仕方なかったことがあります。



なぜエホバは、乳児から大人まで同じプログラムを学ばせるのだろう。

子供は第二会場で、聖書物語や偉大な教え手を姉妹達から学ぶという方式にしたほうが、まず気楽に聖書に親しむ習慣ができるし、年齢に見合った教え方をしたほうが飲み込みも早くなるのに。

なんでこんな非効率的なことをするのだろう。

こんなので親しみを感じろだなんて、殿様商売すぎやしないか、そう感じていました。



実家に『ちびまる子ちゃん』の漫画が全巻あったのですが。

その中にまる子が教会に行く回があり。

教会では、大人は牧師の講話を聞き、子供はシスターの紙芝居をお菓子を食べながら聞くという様子が描かれており、初めて読んだ時はJWとの違いに驚き、かつ羨ましく思ったものです。





聖書の飲み込みが多少遅くなるだけならまだ良いですが。

私が小学1〜2年くらいだった時こんなことがありました。




私以外の家族が、体調不良で集会を休んだことがありました。私は仲の良かった夫婦に送り迎えをしてもらって1人で集会に出席したのですが。


その時、ある兄弟が親の介護のため(というのは集会中には言及せず)開拓奉仕を辞めるという知らせが、会衆の発表の時間になされました。


最近の集会では「◯◯姉妹は、開拓奉仕を中断されます。今までの姉妹の働きに感謝を示しましょう」

で、聴衆が拍手。というパターンも経験しましたが。


その時は「◯◯兄弟は開拓奉仕者ではなくなりました」という言い回しだけで終わったため、幼き日の私は

「◯◯兄弟は奉仕をやめたんだ。奉仕をしないなんてJWではあり得ないから、◯◯兄弟はJWじゃなくなったんだな」

と解釈し、家に帰って家族に「◯◯兄弟はJWじゃなくなったんだって」と言いました。


で、父親が長老に問い合わせて、開拓を辞めただけだと分かり。

父親は激怒して私に言いました。



「親の老衰、介護、エホバへの奉仕を縮小する、そんな辛いことだらけの中頑張ってる◯◯兄弟を排斥者扱いするなんてお前は人でなしだ!」



30近くなった今なら、まぁ言いたいことも、言いたくなる気持ちも分からなくはありません。

父は昔、会衆内で不道徳な行為をしたと根も葉もない噂を立てられたことがあったのもあり、つい当時を思い出してカッとなったのもあるそうですが。

しかしそこまで激昂するなら、もう1歩先まで思考を進めて欲しかった。



まず当時の私は、JWという組織の構成、仕組みなどを全く知らされていない状態だったのです。

伝道者、開拓者、長老、奉仕のしもべといった身近な存在の名前は知っていても、どういう条件でなれるのか、どんな仕事をしているのか、など具体的なことが分かっていませんでしたし

支部委員、MTS(LDC)、ベテル奉仕者、特別開拓者、統治体などといった発展的な内容に関しては、分からないどころか教わってすらいない状態でした。


そういう基本的な事こそ、各家庭の裁量に丸投げせず、まず集会に来始めた子供達にしっかり教えるべきでは?



そして、子供という「前提知識が全く無い人」が理解できないということは、

「初めて集会に来る研究生」も理解できないということになります。


JWは、研究生を集会に招待しろと言いはしますが。その集会自体は、諸々の前提条件が「分かってる前提」で話が進んでいきます。


よくものみの塔で、初めて集会に行った研究生が「内容は全く理解できなかったが、歓迎してくれた温かさだけは覚えてる」と語っている、という経験談が取り上げられますが。


じゃあダメじゃん。


なぜなら、JWの教えは「すべての人のための真理」だからです。

聖書にも、フィリポが偶然馬車に乗り合わせたエチオピアの宦官に布教したところ。宦官は「話の内容に」感動して、馬車を止めてその場でバプテスマを受けた。なんていう記述があります。


初めて聞く人でも感動できるからこその「真理」なのではないのでしょうか。



そして何より

「分からない」だけならまだしも。

小さな子供が聞いて「誤解」するような発表の仕方をしていたわけです。


何の前提知識もない人に

「◯◯兄弟は開拓者ではなくなりました」

としか言わなかったらどう思うでしょうか。

「その◯◯兄弟という人は、何か悪いことをしたのだろう」

と考えてもおかしくないし、その発表の仕方で「エホバは◯◯兄弟の今までの働きに感謝しているんだな」と感じられる人がどれだけいるでしょうか。



前回の記事で、統治体が出すコンテンツが低レベルだということを書いたわけですが。

その統治体に指示を出しているクライアントはエホバなのです。

教理、集会のプログラム、出版物など。これらが低レベルであるなら、責任者であるエホバの責任ということになります。


つまりエホバは、子供達に楽しく聖書を学んで欲しいとは思ってないし、初めて集会に来た人にも分かりやすくプログラムを組む気もないわけです。





というわけで、いろいろとエホバへの不満をつらつらと書いてきましたが。


以上を踏まえた上で、一番強調したいのはここからです。



上に挙げた不満は、まだJWのマインドコントロールが解けていなかった時点でも感じていました。




それなのに




エホバを「嫌い」だと感じていなかったのです。





脱JW界隈では「完全にJWやエホバは嫌いだったが、親に逆らえず好きなフリをしていた」という方もおられますが。

私はそうではありませんでした。


基本的にはどうでもいい存在ではありましたが、例えば大会等で、エホバの愛を示す感動的なビデオが上映された時などは涙し、こんな素晴らしい神が自分にも手を差し伸べてくださっているんだ!なんて感激することもありました。


しかし


先程も書いたように、私はJWおよびエホバという存在への不満や違和感を認識していましたし、その認識が間違っていないと本能的に確信していました。

だとすれば、必然的にエホバという存在への忌避感や、JWへの疑念は深まっていくはずなのに。



それでもエホバという存在を「素晴らしいもの」だと信じていたのです。



いうなれば「心が2つある状態」だったのでしょう。




「エホバと個人的な関係を持ち、ブロキャスや大会で経験を話す人達のように清らかで幸せに満ちた生き方がしたい」


「JWの教えは本当に正しいのか、これに人生を捧げて本当にいいのか」



どちらの自分も「本心から」語っていたのです。



それこそが「マインドコントロール」というものの恐ろしさなのだと思います。


人間の脳みそとはよく出来ているもので。その時都合が良くなるように自動的に心を使い分けられる機能が搭載されているわけです。


たとえその心が完全に相反するものであったとしても、2つを同時に抱えて平然と生きていける。


それが、人間というものの利点であり、欠陥なのでしょう。




その機能を脳から消し去ることはできない以上、自分にはそんな傾向があるという事実を受け止め、常に自戒しながら生きていかなければならない


そんな教訓を20代のうちに得られたことだけは、ある意味幸せなことだったと思っています。