飛鳥に現れた白亜の八角UFO-牽午子塚古墳 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

鳥に「扮する」弥生人

 唐古・鍵遺跡から少し離れた町役場に唐古・鍵ミュージアムがある。ここで最も印象深かったものは、鳥の羽やくちばし、爪のようなものをつけて踊る「鳥装のシャーマン」の再現である。吉本曰く、

 魏志によれば、倭の漁夫たちは、水にもぐって魚や貝をとり、顔や躰にいれずみして魚や水鳥にたいする擬装とした。このいれずみはのちには装飾の意味をもつようになった。諸国によっていれずみの個処や大小がちがい、身分によってもちがっていた。

 古代において鳥とは天地をつなぐ媒介と考えられた。それに扮して踊り、また、鳥や魚に扮するために刺青を入れたという。肉体に墨を入れ、「扮する」ことで人々は自分の現実の肉体から自由になることができ、それを見る人も超自然的な何かを感じることができたのかもしれない。そしてその「祭事」を分かち合うことで「共同幻想」を深めていったのだろう。

 このころの「マツリゴト」というのは「祭事」でもあり「政治」でもあった。政教一致である。しかし性別によって担当する内容が異なっていた。吉本は言う。

「高天が原」を統治するアマテラスが、神の託宣の世界を支配する〈姉〉という象徴であり、スサノオは農耕社会を現実的に支配する〈弟〉という象徴である。そしてこの形態は、おそらく神権の優位のもとで〈姉妹〉と〈兄弟〉が宗教的な権力と政治的な権力とを分治するという氏族(または前氏族) 的な段階での〈共同幻想〉の制度的な形態を語っている。そしてもうひとつ重要なのは、〈姉妹〉と〈兄弟〉とで〈共同幻想〉の天上的および現世的な分割支配がなされる形をかりて、大和朝廷勢力をわが列島の農耕的社会とむすびつけていることである。

 つまり、兄弟姉妹という異性の血族との間に生じる「対幻想」のうち、「神」につながるのが巫女をはじめとした女性、そして「民」につながるのが皇子を中心とした男性になったのだ。興味深いことに、「巫女」も「皇子」も「みこ」である。そしてその神と民、女と男を結ぶのが鳥だった。推定復元された楼閣の二階部分の手すりにも何羽かの鳥の彫刻が留まっているのもその象徴なのだろう。(続)

牽午子塚(けんごしづか)古墳―飛鳥に現れた白亜のUFO?

 みこ(皇子/巫女)といえどもいつかは死ぬ。彼らの埋葬された墓が後に「古墳」と呼ばれることになる。時代下ってヤマト王権が確立し、飛鳥時代には女帝がしばしば出てきた。実在の可能性が高いとされる6世紀以降、約百代ある天皇のうち、十代(うち重祚(ちょうそ)、すなわち退位後改めて即位した天皇もあるので八名)が女帝である。そのうち推古天皇、皇極=斉明天皇、持統天皇、元明天皇と四代三名が飛鳥時代に即位し、元正天皇、孝謙=称徳天皇の三代二名が奈良時代に、後の二人は江戸時代に即位している。

 王権が本格化する七、八世紀はいかに女帝が多かったかが分かろうというものだが、そのうちでも飛鳥時代に重祚した皇極=斉明天皇の墳墓とされる牽牛子塚古墳が明日香村の山中に復元されたので、公開直後に行ってみた。

駐車場から竹林や雑木林を十数分歩いていくと、突如白亜のUFOのような物体が山際に「着陸」しているかのような、何とも不思議な光景にであった。対角が20mあまりの八角形をした真新しい石造りの「物体」。丘の上から見ても下から見てもこの世のものを見せられているとは思えない。

 

西方浄土、二上山の石と八角形の謎

石といえば、飛鳥には蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳、唐風の美人たちが描かれた高松塚古墳、極彩色の四神や星座が描かれたキトラ古墳など、立派な石室を持つ古墳が少なくない。斉明天皇が息子中大兄皇子による蘇我氏斬殺を期せずして見ることになった板葺宮(いたぶきのみや)も基礎はすべて石造りだ。しかしここの石造りは別格なほどに巨大である。

聞くと、大和・河内境の二上山の石を使用しているという。二上山。奈良(大和)盆地の日出るところが三輪山ならば、日沈むところがここである。「日没」すなわちあの世を意味するこの山麓には、西方極楽浄土の様子を織って曼荼羅にしたことで知られる當麻寺(たいまでら)があり、また山上には壬申の乱で無念の死を遂げた大津皇子の陵もある。なるほど、冥界のシンボル、二上山の石を使ってこの「白亜の八角UFO」をつくったのにも意味がある。

 

「八角」のもつ意味

古墳というと前方後円墳がメジャーだが、ここでは八角だ。中国思想でいう四方八方、すなわち全方位を表すからとか、法隆寺夢殿などにみられるような仏教的世界観からとか、諸説あるが、七世紀のこのころにおいては八角形の陵墓は天皇陵に限られる。そういえば平城宮大極殿に再現されている高御座(たかみくら)も八角形だ。

 天智天皇、天武天皇の母としても知られる斉明天皇だが、女帝というのは性的には「巫女」でありながら社会的には「皇子」でもある、いわば「両性具有」とでもいうべき存在といえる。思うに、ここにいたって吉本のいう男女間の「対幻想」から、血族以外を含んだ「民族集団」に帰属意識を求める「共同幻想」が生まれたのかもしれない。「八角」の表す意味は、やはり国内の四方八方すみずみまで治めるという意思の表れではなかろうか。

 

死と生の間―崩御後に生まれた律令国家

また、吉本は

『古事記』には〈死〉と〈生誕〉が、それほどべつの概念でなかったことを暗示する説話が語られている。

 というが、天皇も身は土に還ったとしても、その子中大兄皇子が大津に都を移して大化の改新を推し進め、弟の大海人皇子は飛鳥浄御原に都を移したことからもわかるように、「死」によって国家経営が途絶えたわけではない。むしろ二人の息子たちはそれぞれ新しい律令国家をつくっていったのだ。

そして当時のグローバルスタンダードだった唐の律令制度に基づく新国家の成立こそ、自らを「天皇」と呼び、国家名を「日本」と改めた大海人皇子=天武天皇による「共同幻想」の新しい幕開けとなった。

 私たちは二上山南麓の、飛鳥時代に開かれ、遣隋使や遣唐使も歩いて新文明をもたらしたであろう竹内街道を通って大阪府に向かった。(続)