平戸の光と影 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

倭寇の本拠地、平戸にやってきたザビエル

 平戸は島である。ただ現在は平戸大橋で本土とは陸続きだ。ゴールデン・ゲート・ブリッジを思わせる真っ赤なこの橋を渡って北に向かうと平戸の城下が見えてきた。長崎の陰に隠れて目立たなくなったが、実はこの町は16世紀前後の日本の玄関口だった。倭寇の拠点でもあり、領主松浦氏は目の前の東シナ海の向こうの大陸、そしてそのさらに向こうの東南アジアを見つめていた。

城下に「六角井戸」なるものがある。明の倭寇、王直の屋敷跡にあるこの井戸は明のスタイルという。城下にはこの町を舞台に活躍した多くの人物の像があるが、その中に王直のものもある。彼がこの町に五島経由でこの国際港に来たのは鉄砲伝来の前年、1542年だった。そういえば五島の福江でも「六角井戸」を見た。井戸が東シナ海をつなげていたかのようだ。

 1550年にポルトガル船がこの国際港に来航したと聞き、すぐにここを訪れたのが、鹿児島を去ったザビエルだった。城下に「教会と寺院の見える風景」がある。国際文化交流が盛んだったこの島のシンボルとして、観光ポスターやパンフレットの表紙を飾る風景だ。教会の尖塔を目指して歩いていくと、ようやくザビエル記念教会にたどり着いた。

 1931年に建てられたライトグリーンのこの教会。「コウモリ天井」と呼ばれる内部の装飾も美しい。奥の祭壇には男女の天使像があるのだが、その服装や色使いのキッチュさが中国風で、マカオにでも来たかのような感じがしてくる。よく考えるとザビエルは二年あまりの日本布教の後、明での布教をすべくマカオにもしばらく滞在したのだった。日本ではずっと文明の伝道役をしてきたのは中国だったため、日本を教化する前に明の教化を考えたからと言われる。

 このロマンチックなまでに「おしゃれ」な教会を背景にウェディングフォトをとる新郎新婦も少なくない。しかし私は教会入口にある、キリシタンの苦難を記した殉教者顕彰慰霊の碑を見てしまった。美しい教会の裏には三百年近く弾圧され続けた生々しい歴史が残っており、薄皮を一枚むけばそれが露出することを痛感するに時間はかからなかった。

多彩な面を持つ平戸

 とはいえそのような悲劇を消し去るかのように、この港町兼城下町は多彩である。ザビエルは三度訪問して布教したというが、それもポルトガル商人がこの町を訪れて南蛮貿易の一大拠点としたからだ。遅れてスペイン人も来航し、江戸時代初期には幕府によって事実上の「大使館」ともいえる平戸オランダ商館および平戸イギリス商館もたちならび、朱印船貿易の一大拠点としても栄えていった。

 平成になってオランダ商館の建物が復元され、イギリス商館の跡地には記念碑がある。こうした多彩な面を持つ平戸だったが1623年にイギリス商館が閉鎖され、1641年に長崎のオランダ商館にその機能がすべて移されると、東シナ海有数のこの港町はただの漁港となってしまった。

 市内の小高い丘の上にある松浦史料博物館では、1587年に秀吉が出した「切支丹禁制定書」が残されていた。観光地としてのイメージ戦略では「文明・文化が融合する町」をアピールしたいのだろうが、どうやらこのキリシタンを取り締まる時代に入ってからの平戸は、それまでの「クレオール的」融合とは異なる排他性を持った土地になっていったことを無視できないようだ。

「おろくにんさま」

ガイドの方とともに平戸を歩く機会があり、郊外の根獅子(ねしこ)を訪れた。途中は西海国立公園のリアス式海岸が美しい。海岸近くの森の中に木々がうっそうと生い茂り、昼でも薄暗い一角がある。そこが「おろくにんさま」と呼ばれる杜で、U字型に石垣を並べ、その中に墓がある。なにやら沖縄の「御嶽(うたき)」を思わせる。

禁教時代にこの村に働き者の青年が来た。彼を気に入ったキリシタン夫婦が娘を嫁がせた。そして赤ちゃんまで身ごもるようになるころ、ようやく彼に本当の意味でこころを許し、隠れキリシタンであることを明かした。すると翌日、婿の姿はなくなり、代わりに役人がやってきてお腹の赤ちゃんともども家族六人がここで処刑された。婿は隠れキリシタン家族を密告したのだ。「六人」が殺されたので「おろくにんさま」として霊を弔ったという。青く美しいビーチなだけに、かえってそのぞっとするような凄惨さを感じさせられる。

 このようなことがあるため、明治時代以降も平戸や隣接する生月島の隠れキリシタンたちはいつ同じような世の中に戻るか分からないため、集落外の人には自らの信仰を明かさず、表面上は佛教徒として振る舞ったという。これは人間不信とか疑心暗鬼とかいうレベルではない。隠れキリシタンとして生きていく最低限のコミュニケーション・スキルというべきだろう。ちなみにこの島での隠れキリシタンは真言宗が多いというが、弘法大師空海が唐に向かう際立ち寄ったのもこの平戸だといい、最教寺には彼の像もある。

 

納戸神とマリア観音

 おろくにんさまの入口には平戸市切支丹資料館が建てられている。私たちの訪れた日は他に見学者はいなかった。ただでさえ重苦しい雰囲気だが、職員も挨拶以外は始終無言のままである。昭和五十年代に建てられた資料館の内部は、薄暗く、ショーケースの白熱灯だけがやたら明るい、いかにも「昭和の資料館」である。中にはやたら日本語と韓国語で「撮影禁止」と書かれていることから、こんなところにも韓国人クリスチャンたちが来るということが見て取れる。朝鮮でもキリスト教の禁教時代が長かったため「同病相憐れむ」思いだろう。

 ここで注目すべきものが二点あった。まずは再現された「納戸神(なんどがみ)」である。一般的に全国では恵比須大黒などを納戸に祭ったが、キリシタンたちは隠れてマリア像を置いたという。その様子が納戸ごと再現されている。見るからに普通の納戸である。もう一つは「マリア観音」と呼ばれる、中国的な子どもを抱いた観音像である。これを仏壇に置き、役人に見つかったら「マリアではない、観音様だ」とカムフラージュするためのものだ。

 

「お呼びでない」

これらは「再現」であり「レプリカ」ということなので、「本物」ではないはずだ。いや、しかし何をもって本物、レプリカを区別するのだろうか。例えば奈良の寺院の名だたる仏像はレプリカを作って本物が各地の美術館で展示されているときの代わりとする。国宝の仏像ならば「美術品」として本物とレプリカの区別はあるのだが、隠れキリシタンの信仰の対象は美術品ではない。マリア観音といっても、作られたときにはただの観音像だったかもしれない。しかしそれをキリシタンが隠れて拝むことでマリア観音になったのだ。そしてそれはキリシタンではない「日本人」がいくら拝もうとも「マリア観音」にはならないだろう。

逆に、これらはレプリカと書いてはあるが、閉館後は隠れキリシタンの方々がここに集まってこれを拝んでいたとしたら、それは本物であろう。本物とレプリカの基準が分からなくなった。

別の空間を思い出した。システィーナ礼拝堂の空間を陶板で再現した、徳島県鳴門市の大塚国際美術館である。あの空間は確かに神聖な感じがしないでもなかった。しかしそれは本物を陶板で再現したことの完成度の高さに対する賞賛であり、宗教的な美しさではなかった。だれも拝む人がいないからだ。あの華麗な空間に比べると、この目の前の納戸神やマリア観音の貧相さ、キリシタンたちの血のにじむような思いを感じないではいられなかった。

目の前にある、かつてキリシタンたちが命がけで祈り、守ってきたものの前で、私は置いてけぼりを食わされたような気がしてきた。無言のまま「お前はお呼びでない」と言われているような感じなのだ。ここは明らかに私のテリトリーではない。はっきりとそう感じ、この島を去った。