キリスト教伝来前夜―種子島
日本史上もっとも有名な「外国人」はだれだろうか。小学生でも知っている人物でいうなら、ザビエルとペリー、マッカーサーあたりだろうか。鑑真も外国人とはいえ、東洋人だからかこれらの三人のような「外国人枠」になさそうな気がする。ただ無名の外国人も無数にいる。名は知られていない「有名人」の代表が、種子島に漂着したポルトガル人たちだ。
私が九州を歩くときは12月末、クリスマスのころが多いが、ある年のクリスマスを種子島で過ごしたことがある。島の中心にある港町、西之表(にしのおもて)からレンタカーで南端の門倉岬を目指した。1543年、ここに漂着したのはポルトガル人だというのは小学校の教科書にも載っているが、実は彼らは東シナ海を自由に行き来していた明の商船に乗ってやってきた。それを組織していたのは平戸や五島等を根拠地としていた王直という倭寇であるという。
門倉岬では道を間違え、未舗装の道に出てしまい、タイヤが穴にはまって立ち往生した。何とか旅友たちと力を合わせて切り抜けたが、車は傷だらけになって後に弁償させられた。こうしたアクシデントのすえ、ついにポルトガル船が漂着したという岩場についた。こんな座礁しそうな岩場なら、その舟はきっとこの車どころではないほどボロボロだったに違いないと思いながら、はるか南の沖合を流れる黒潮を眺めた。「南蛮」。彼らは西洋人だが南から来るのでこう呼ばれた。
この漂着を俗に「鉄砲伝来」というが、南蛮人が来航した目的はビジネスである。鉄砲はあくまで戦うための実用品として所持していたに過ぎない。しかし日本側にはこれが戦国の世を急速に終えるきっかけとなった鉄砲のインパクトが非常に大きかったのだろう。鉄砲を「伝えた」人物は無視されたが、「伝えられたモノ」の存在はこの上なく大きい。
南蛮人より有名な「わかさ」とは?
西之表にはわかさ公園というところがある。航行するフェリーの名も「わかさ」で、私が泊まったホテルのラウンジの名も「わかさ」だった。「わかさ」とは一体何者なのか。
当時の領主、種子島時堯(ときたか)は彼らの持ち込んだ鉄砲に着目した。そして大枚をはたいて二丁購入し、それを分解して同じものを作ろうとした。鉄砲研究と製作を命ぜられた刀鍛冶の職人は、娘を南蛮人に嫁がせ、その製作法を盗ませた。特に分からなかったのがネジの仕組みだったという。しかし娘のおかげでその職人は鉄砲の国産化に成功した。そして彼女の名が「わかさ」だったのだ。今でいうなら「女産業スパイ」になろう。
島の北東にサーファーのメッカとして知られる鉄浜(かねはま)海岸がある。ビーチを歩くと、砂に黒いものが混じっている。砂鉄だ。私も日本一の砂鉄の産地、奥出雲で生まれ育った。子どもの頃は川に磁石を入れて砂鉄をくっつけて遊んだものだ。この島は砂鉄があったからこそ刀鍛冶が栄えた。そこに鉄砲がやってきたので、技術を移転することに成功したのだ。日本と西洋との交流は、このように鉄砲を通して始まった。そしてそれが次の段階に移るまで、そう時間はかからなかった。
鹿児島―初めて布教した地
ところでこのポルトガル人たちはカトリックだったはずだが、商人なので特に布教を志してはいなかった。そしてこのときから六年後、薩摩半島の坊津に南蛮人の船が漂着した。そこに乗っていたのがかのイエズス会宣教師、フランシスコ・ザビエルだった。
それを記念して建てられたザビエル上陸記念碑が錦江湾沿いの祇園之洲公園にある。ここ鉄砲という「モノ」だけではなく、「キリスト教」という「ココロ」がこの国に入ったのも薩摩の地であると思うと感慨深い。そして鹿児島に赴いたザビエルはそこで島津貴久に布教を許された。ただ城下の佛教勢力と折り合いがつかず、一年足らずでこの町を去った。
ちなみにこの町にザビエルをいざなったのは。人を殺めて東南アジアに逃亡しているうちに悔い改めてクリスチャンとなったヤジロウという薩摩人である。教会用語やキリスト教の世界観を薩摩弁に通訳できるのは彼だけだったことだろう。
ただ、たとえ分かりやすい薩摩弁による教えだったにしても、ザビエルやヤジロウがこの町でまいた種は、信者からさえどのように理解されたのかを考えるとその効果は疑問である。遠藤周作は「沈黙」の中で主人公にこう語らせている。
「デウスと大日と混同した日本人はその時から我々の神を彼等流に屈折させ変化させ、そして別のものを作りあげはじめたのだ。言葉の混乱がなくなったあとも、この屈折と変化とはひそかに続けられ、お前がさっき口に出した布教がもっとも華やかな時でさえも日本人たちは基督教の神ではなく、彼等が屈折させたものを信じていたのだ」
信徒が信じた神の正体がどんなものか今となっては分かるすべもないが、城下には現在ザビエル記念聖堂が、そしてその道路向かいにはザビエル公園も整備されており、ザビエルの功績を顕彰している。
シドッティの教会と苔
屋久島というと世界遺産の縄文杉がそのシンボルだが、日本のキリスト教史の中では特筆すべき地である。1708年、禁教下の日本に最後の宣教師が潜入したのも薩摩の屋久島だったからだ。つまり南蛮文化やキリスト教が伝来したのも薩摩なら、それが最後に到着したのも薩摩の屋久島といえる。
宮之浦港からレンタカーで島の南部に向かった。クリスマスイブの夕刻、着いたのはシドッティ神父上陸地の碑である。駐車場から北の山を見ると、花崗岩の巨大な岩がにょっきりと突き出ている。耳岳というのだが、別名「マドンナ岳」とも言い、言われてみると聖母マリア様がキリストを抱き上げているように見えてくる。実に神々しい。岩を神仏に見立てて拝むというのは日本人の信仰心の中に普通にあるが、禁教下ではそれさえもタブーで、潜伏キリシタンたちは隠れて拝んでいたのだろう。
彼が上陸したであろう場所は、やはり険しい岩場である。近くにシドッティ神父のサンタマリア教会がある。イブなので集まりがあるのかと思ったが、だれもいなかった。教会でクリスマスシーズンによく見るキリスト生誕の夜を再現した人形たちが入口に飾られていたが、その地面が苔だらけだったのはほほえましかった。屋久島というと縄文杉の次に有名なのが「もののけ姫」の舞台と言われる白谷雲水峡であるが、そこが苔で覆われているため、キリストの家の周りに苔をはやしていたのだ。イスラエルの乾燥した地で生まれたはずのキリスト教だが、ここでは完全に現地化している。
新井白石VSシドッティ 東西の知の衝突
彼はおそらく十日ほどこの村にいたのだろう。その後薩摩経由で幕府に捕らえられ、江戸に送られて時の老中新井白石と何度も宗教に関する問答を重ねた。イタリア人のシドッティは、ラテン語は分かったが、当時の日本で理解されていたオランダ語も中国語も知らなかった。一方新井白石は、外国語は話せなくとも言語学にも通じていた。さらに朱子学をおさめつつ陽明学にも傾倒していた。この東洋の知の巨人、白石にとって、殺されることもいとわず自らの知を行動に移したこの西洋の知の巨人は、知行合一を標榜する陽明学者のようにも見え、「敵ながらあっぱれ」と思えたのではなかろうか。
とはいえシドッティのいう天地創造やアダムとイブの話などは白石にとって非論理的にして笑止千万であった。ただ西洋の学問は取り入れるがその精神であるキリスト教は拒否するという態度は、日本だけでなく東洋各国によく見られたものだ。
シドッティは江戸の切支丹屋敷内に入れられたとはいえ、監禁ではなく軟禁だったらしい。ただ世話をしてくれていた老夫婦の願いで洗礼を施し、それが発覚して彼らは拷問を受け、そしてシドッティも地下牢に移されて1714年に衰弱死した。その後一世紀半にわたり、あえて日本に来る宣教師はいなかった。すでに禁教後一世紀が経とうとしていたが、この間は神父不在の時代が続く、キリシタンにとって真の暗黒時代となった。このように、キリスト教は薩摩に上陸したザビエルがキックオフし、瞬く間に広がり、屋久島に上陸したシドッティを最後に幕末までその姿を完全に消した。薩摩はキリスト教の始まりの地であり、「一時停止」の地でもあるのだ。(続)