大阪万博「太陽の塔」はカマキリか?
私が生まれる一年前の1970年、大阪でアジア初めての万博(一般博)が行われた。本来1940年に東京で行われるはずだったが、日中戦争のために三十年「延期」された認識という。延べ6400万人以上というそれまでの万博史上最大の入場者数を誇ったイベント会場は、大阪北部吹田市の竹林を切り開いてつくられた。そのシンボルは岡本太郎の代表作「太陽の塔」であった。
その二十年後、大阪で学生生活を送ることになった私だが、学生生活の四年間でこの太陽の塔は気になりつつも、なかなかいく機会がなかった。ようやく卒業直前の冬から春に移ろうとする、ある晴れた日に訪れる機会がやってきた。
太陽の塔は広い草原の中、左右にとがった「手」で通せんぼするかのように立ちすくんでいた。老荘の影響を強く受けていた私は、カマキリの姿を思い出した。「荘子」は無謀な身の程知らずの人物を批判する際、カマキリを持ち出す。
「猶螳螂之怒臂以当車軼(それじゃまるでカマキリが怒って両手のカマを振り上げ、車輪にぶつかっていこうとするようなものじゃないですか。)」
なるほど、両手のカマを振り上げて馬車の車輪にでも向かっていこうとするカマキリは勇ましい。しかし勝算はゼロだ。これに対し、老荘の影響を受けた漢の時代の思想書「淮南子(えなんじ)」に出てくるカマキリ解釈はひと味違う。
「斉荘公出猟。有一虫。挙足将搏其輪。問其御曰、『此何虫也。』対曰、『此所謂螳螂者也。其為虫也、知進而不知却。不量力而軽敵。』荘公曰、『此為人而必為天下勇武矣。』(ある王が馬車で狩りに出たところ、虫が一匹馬車の車輪に向かってきた。「なんだこの虫は?」と王が御者に聞くと、「これがカマキリでございます。前に進むだけで、後ずさりができず、相手を見くびる身の程知らずなやつございます。」と答えると、「それは人間でいえばサムライの中のサムライじゃないか!」と王は言った。)
顔をくしゃっと怒らせたようにみえる太陽の塔を見たとき思ったのは、身の程知らずと言われてもファイティングポーズを崩さない「サムライの中のサムライ」と称されたカマキリに思えてきて、好感を持った。
モダニズムに対して立ち向かったカマキリとしての太陽の塔
岡本太郎がこれを作成した1960年代後半は、戦後の高度経済成長のひずみがあらわになった時代だった。この塔のひな型ができた数年前の1964年、日本はアジア初のオリンピックを成功させた。そして1968年、日本のGNPはアメリカに次ぐ世界第二位になり、まさに「我が世の春」を謳歌していた。
一方、環境問題でいうなら四大公害裁判、消費者問題でいうならサリドマイド事件や森永ヒ素ミルク事件、そして国防面では七十年安保闘争など、発展に見合わない社会問題があふれていた。大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」であった。科学技術に関してはアポロ月面着陸など人類の科学技術は「進歩」しているかに見えたが、そのアメリカもベトナム戦争の泥沼化や黒人差別問題など、「調和なき進歩」でしかなかった。
当時、このような混乱の中で国家事業としての「おまつり」をすることに反対する風潮を「反博」と呼んだ。「反博派」はこの高さ70mにもなる太陽の塔を作った岡本太郎をも万博に加担したとみなし、前衛芸術家の風上にも置けないと批判した。しかし太郎はこれに対してこう反論する。
「反博?なに言ってんだい。いちばんの反博は太陽の塔だよ」
今は見られないが、万博当時はこの塔の周辺は「お祭り広場」といって、丹下健三設計のモダニズム、すなわち「進歩と調和」を象徴するような巨大な屋根が覆っていた。いや、正しくいうと、初めにこの大屋根があったところに岡本太郎が穴をぶち明けて太陽の塔を作ったというべきだ。これには当初岡本太郎を仲間に引き入れた丹下健三も難色を示したが、ついには折れたという。
しかしお祭り広場の「主人公」を太陽の塔に譲った丹下にも先見の明があった。万博前も、万博中も、万博後半世紀以上経ってからも、大阪万博のシンボルというとモダニズムの権化の大屋根を突き破った縄文時代の土偶さながらのあの塔をおいて他にないからだ。
四角四面のその大屋根は、中国思想でいうならば正統派の儒教―すなわち孔孟の教えを思わせる。その大屋根を突き破って大地を見渡す太陽の塔は、孔孟の教えに大きく異議を唱えた老荘の教えのメタファーに思えてきてならない。私は人類の進歩と調和のシンボルに立ち向かうカマキリの姿をそこに見た。「タオ」ってる。これが私にとっての太陽の塔の魅力だと再確認したのだ。
縄文の美を「見つけた」太郎
それにしても太陽の塔の表情が気になる。あの顔はどうみても「美しく」は見えない。二十代をパリで学び、三十代前半は中国戦線に送られた岡本太郎は、終戦後ようやく日本の美を探求できるようになった。そして奈良や京都の文化財を探訪するにつれ、大陸渡来のお行儀よく出来すぎている奈良や京都の文化財に不満を持った。そして日本人の価値基準は西洋的近代主義と、その裏返しの伝統的日本の二つしかないことに気づくと、もっと根源にある民族の魂の叫びを聞きたくなった。そして行脚を重ねてついに「発見」したのが縄文時代の土偶だった。縄文の美にとりつかれた太郎は言う。
「人類は進歩なんかしていない。なにが進歩だ。縄文土器の凄さをみろ。(中略)調和というが、みんなが少しずつ自分を殺して、頭を下げあって、こっちも六部、相手も六部どおり。それで馴れあってる調和なんて卑しい。ガンガンとフェアに相手とぶつかりあって、闘って、そこに生まれるのが本当の調和なんだ。」
このくだりを読んだら「老子」に生命の誕生について書いてあることを思い出した。
「天下萬物生於有、有生於無。(この世の全てが形あるものから生まれるが、それは形ないものから生まれる。)」
「道生一、一生二、二生三、三生萬物。萬物負陰而抱陽、沖氣以爲和。(タオから「一」がおぎゃーと生まれ、一から二、三がひょいひょい生まれていき、三から全てのものがバーッと生まれていった。すべてのものにはプラス要素とマイナス要素がちゃんとセットになっていて、それらがバーンとぶつかったと思えばしっくりしたかたちができたのだ。)」
ぶつかってこその調和。太陽の塔はタオそのものであり、そして今なお、そしてこれからもずっと私たちにこのメッセージを無言で叫び続けることだろう。
「タオ」とは生命のメカニズムそのもの
2018年には実に半世紀近くにわたって閉じられていたあの塔の内部が改修され、一般公開された。中はいかにも岡本太郎の現代アートの世界、といいたいところだが、私にとってはやはり「タオ」そのものを感じた。
中には高さ41mの「生命の樹」という極彩色のオブジェがあり、その枝には単細胞のアメーバから始まり、恐竜や哺乳類、猿人、そして人類までのオブジェにより、生命のつながりの歩みが「太郎テイスト」で紹介される。見る人はみな、自分のなかに猿人や恐竜、たどっていくとアメーバまでがいることに気づかされる。
アメーバのような単細胞生物を「一」とするなら、そこから色々な生物が「ニ」、「三」…と発展していき、今の我々にいたる。しかしその大本を老子は「タオ」と名付けている。つまりタオとは生命の根源であり、その生成のメカニズムをいうのだ。
塔内のらせん状の階段を上っていくとその生成のメカニズムが見られるが、それが高さ41mの巨木であるのが面白い。「荘子」にはこんなくだりがある。
「上古有大椿者、以八千歳爲春、八千歳爲秋 (大昔、ターチュンという巨木があったが、春夏八千年、秋冬八千年、つまり一万六千年に一つしか年輪が増えなかったのだ。)」
全生物の進化過程をたどらせるこの「生命の樹」は、まさに八千年をもって春となし、八千年をもって秋となす「ターチュンの巨木」に他ならない。その生命のエネルギーのつながりこそが「タオ」といってよいだろう。
塔の外に出て思った。ここは「タオ」を視覚的に理解するにはうってつけの場である。しかしあまりにも「タオ」が目立ちすぎる。私にとっての「タオ」は、もっと目立たないもののはずだ。大阪のどきつく目立つ文化とは対照的で、時流に流されずのんびり目立たないながらも奥深さをたたえる場所に行きたくなった。福井や山陰などが思い浮かんだが、思いあぐねた結果、年末に佐賀県に向かうことにした。