坊っちゃん>漱石の俳都、松山 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

「坊っちゃん」の面々

松山に愛媛県尋常中学校の教師として漱石がやってきたのは1895年、日清戦争の下関条約締結の年だった。ここで教鞭をとった約一年間の思い出が、後に「坊っちゃん」となったのは言うまでもない。

小学校一、二年生のとき、はじめて母に読んでもらった文学作品がこれだった。「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」で始まるこの名作を、当時の私がどれだけ理解していたのかは記憶にないが、好きなキャラクターは竹を割ったような正義感あふれる江戸っ子の坊っちゃんと、どこか影がある頑固一徹な会津人、山嵐であった。もちろんそのころの私は戊辰戦争など知る由もない。ただ

「きみはどこだ」 「僕は会津だ」 「会津っぽか、強情な訳だ」

というくだりから、会津という場所があり、なぜか知らないがそこの人は強情であるという感覚を持つようになっていた。

江戸っ子、しかも元旗本の子の坊っちゃんの盟友が会津の山嵐であるとすると、彼らを管理下に置こうとする陰険で西洋かぶれの教頭「赤シャツ」は、薩長の藩閥政治をほうふつとさせる。さらに赤シャツの腰巾着が、同じく江戸っ子の「野だいこ」であるということは、文明開化で皮相な西洋文化にかぶれる東京人を揶揄しているのだろう。

さらにクライマックスで赤シャツが芸者遊びをしているのを坊っちゃんらが見つけて懲らしめたというのは、弱者の立場に置かれた旧幕府勢力への挽歌にも思え、一時的にはすっきりしても、それによって坊っちゃんらは何を得たわけでもない。

子どもの頃読んでもらった折には面白かったのだが、大人になってから読むと、地方蔑視だけでなく、坊っちゃんや山嵐はしょせん学校を去ることになっても、陰険な赤シャツらは学校という体制を牛耳っていることに気づく。さらに想像をたくましくするなら、日本を発展させたのは、空回りの正義感あふれる坊っちゃんや山嵐ではなく、頭脳派でいち早く国際社会に適応した赤シャツたちに他ならない。

 

松山=明治日本そのものか?

ここまで考えてなぜ松山の人々が「坊っちゃん」を受け入れるのか理解できるような気がしてきた。坊っちゃん=松山を揶揄する江戸っ子、というのは表面上の話で、松山というのは愛媛県の県庁所在地ではなく、中途半端に西洋かぶれした似非日本人、似非西洋人あふれる明治期の日本のメタファーと割り切っているのではないか。

そしてこれまで歩んできた自分の道を軽々捨て、西洋化こそが本来の道とばかりに邁進する明治の世相に鉄槌をうち、「戦闘では勝ったが戦争では敗れた」という頑迷固陋な江戸っ子と会津っぽが主人公の作品なのだ。

ここである意味最も人気のあるキャラクターを忘れている。日本が歩んできた道を体現する存在が、坊っちゃんを目に入れても痛くないほどかわいがる乳母の「清(きよ)」である。江戸時代そのままを引きずりつつ明治時代を生きてきた、この無償の愛の持ち主こそ、「坊っちゃん」の裏の主人公である。

これはやはり江戸時代への懐古的な思いと、それに別れを告げて近代を生きていかざるを得ない明治人の物語である。坊っちゃんが罵ったのは松山そのものではない。激動の時代で「ストレイ・シープ」となり、本来の自分を見失った日本人を徹底的に批判しているのだ。

 

愚陀佛庵と「だんだん」

その漱石が下宿していたのが、後に愚陀佛庵と呼ばれる日本家屋である。ここに滞在しているときに東京で療養していた子規が帰省し、52日間を共に過ごした。子規が階下に、漱石が二階に住んでいたのだが、子規はしばしば句会を開き、漱石も子規の俳句の門弟となった。

愚陀佛は 主人の名なり 冬籠

という句を残していることからもわかるように「愚陀佛」とは漱石の俳号である。漱石の時代には市街地にあった愚陀佛庵だが、戦災で焼失し、1982年に城下の萬翠荘という洋館のそばに再建された。しかし2010年の豪雨による土砂崩れで全壊しまい、現在はその一階部分が道後温泉近くの子規記念博物館に再現されているのみだ。

萬翠荘入口にはいかにも安藤忠雄らしい打ちっぱなしのコンクリート建築、坂の上の雲ミュージアムが目を引く。明治時代を生きた子規と、日露戦争を率いた秋山兄弟をモデルとしたこの作品は、司馬遼太郎の小説の中でも特に人気が高く、NHKでもドラマ化された。ちなみに漱石も出ては来るが、あくまで常連の脇役であり、ミュージアム内にも漱石に関する展示は多くはない。

このドラマには原作の活字では味わえない面白さがあった。主人公たちの話す伊予弁である。山陰人の私にはあのドラマの方言にどれくらい真実性があるかは分からないのだが、山陽人が山陰の言葉を話しているような新鮮さがあった。中でも理屈抜きで嬉しかったのは、子規たちが礼を述べる時に「だんだん」という場面が幾度も出てくることだ。これは江戸時代の京都の遊里言葉だったのが西日本各地に広まったものというが、私のふるさとの出雲周辺では今なお日常的に使っている。

あいにく現在の伊予弁では死語となりつつあるようだが、おそらくこの町に滞在した漱石も、当時はこの言葉を頻繁に聞いていたに違いない。

道後公園の連歌と「俳都」

子規の実家は松山市駅近くに「子規堂」として復元されているが、それとは別に道後に子規記念博物館がある。その一帯は中世の城郭、湯築城があったところで、「道後公園」として開放されている園内には武家屋敷が復元されていた。そこで驚いたのは、資料館となっている屋敷内で五、六人の着物を着た武士や僧侶のマネキンが頭をひねりながら連歌会をしている場面の復元だった。

実は私が松山で見聞きしたものの中で最も感銘を受けたのは、松山城でも道後温泉でも子規庵でもなく、この中世城郭の連歌会の復元だった。他の城郭ならば鎧兜や刀など「武」の展示になるのだろうが、松山市はここに連歌会という「文」を再現しているのだ。

連歌とは、歌人たちが車座になり、最初の一人が五七五の発句(ほっく)を詠みあげると、次の人がそれに続く句を七七の句で繋げるという、チームワークによる文学表現である。戦国時代に宗祇によって大成されたとされる連歌が江戸時代に俳諧となった。近代俳句の都であるこの町が中世城郭を復元するにあたり、俳句のルーツである連歌を行う様子を再現するという「温故知新」こそ、この町を「俳都」であることの証明だろう。松山の人々はグローバリズムにのって自分を見失う「赤シャツ」ではないのだ。

松山の町を駆け足で歩いてみて改めて気づいたのは、この町は漱石ファン向けに「坊っちゃん」というコンテンツを地域おこしのために活用するが、夏目漱石という一時滞在者についてそれほど重きを置いているわけでもなさそうだ。ここに「漱石<坊っちゃん」という図式が思い浮かんだ。それよりも地元の子規や虚子、碧梧桐らの広めた写実的な近代俳句を誇り、その活動の舞台としての愚陀佛庵や子規堂、そして俳句のルーツとしての連歌師たちが道後公園の武家屋敷に復原されているのである。

松江の茶道文化と肩を並べるか、それ以上の本物の精神文化と、それを引き継ぎ、次の世代に伝えていく人々の営みを確認してから、この「俳都」を後にした。

 

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