諭吉の愛弟子、犬養毅のふるさと | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

備中庭瀬 犬養毅のふるさと

岡山市は四つの区に分かれており、その最大の区が北区である。北区は中心部から足守、そして田園地帯にある庭瀬までを占める。この庭瀬の田園地帯を、初秋の頃レンタサイクルで走ったことがある。山陽新幹線の高架のあたりからあぜ道をアスファルトにしたかのような細く曲がりくねった道を行った川入という集落に犬養毅の生家がある。「犬養木堂記念館」という表示に沿って進むと、大きな門が現れた。想像以上の大邸宅である。

彼は武士ではなかったが、この地方最大の庄屋の家柄である。また備中一宮として知られる吉備津神社の随神の家系ということになっているため、同社の駐車場には彼の銅像もたっている。要するにこの地方一の名家の生まれなのだ。

1855年、緒方洪庵が天然痘種痘のため東奔西走し、諭吉が適塾の門をたたいたころ、彼はこの屋敷で生まれた。幼いころから漢籍に親しんできた彼は、能書家でもあった。記念館内には力強い自筆の言葉であふれている。諭吉が伝統的な東洋文化を身につけながらも「封建社会の遺物」としてこれに距離をおこうとしたのに対し、犬養毅は自分のルーツである漢籍と書を大切に保ち続けたのだ。

 

慶應義塾と西南戦争

1876年に上京し、慶應義塾に入って諭吉の薫陶を受け始めた彼は、名家の出でありながら新聞社「郵便報知(現読売新聞)」でアルバイトをする苦学生でもあった。新聞社とはいっても配達員ではない。幼いころからたたき込まれた漢学の知識を縦横無尽に駆使し、書生の身分でありながら知識層をもうならせる名文を書く言論人だったのだ。

翌1877年に西南戦争が勃発すると、今でいう「報道特派員」として九州に赴いた。その理由は学費に事欠き、慶應義塾卒業までの学費を出してもらえるという話がでたからだ。「学問のすゝめ」にある「一身独立して一国独立す」の精神が身に染みていたのかもしれない。

そして自ら命を賭して熊本・田原坂から鹿児島・城山など激戦地を取材してまわり、臨場感あふれる記事で日々の紙面を沸かせた。特に政府に反旗を翻すことで地元を荒廃させた張本人の西郷隆盛を慕う南九州の人々の姿を克明に描くなど、他紙のような新政府側の「ちょうちん記事」とは一線を画す記事を書いた。

「学問のすゝめ」にも「ただいたずらに政府の威光を張り人を畏して人の自由を妨げんとする卑怯なる仕方にて、実なき虚威というものなり。」とあるが、報道の自由を得るためにはあくまで政府からは独立した報道機関であらねばならなかったのだ。

戦地から戻ると、諭吉から「学生の本分は勉強である」と、学問が遅れたことを叱られた。戦場特派員として仕事をしたのだから、卒業までの学費は「郵便報知」から保証されるため、学問に打ち込もうと思った矢先、新聞社が経営不振を理由にそれを反故とした。また成績が首位でなかったことなどから、彼は卒業間近で慶應義塾を中退してしまった。誰よりも残念なのは諭吉だったろう。ただ慶應義塾大学の資料館には、OBの筆頭として彼の名は挙げられている。

 

永田町でも役立ったスピーチ能力

その後の犬養毅はジャーナリストとして活躍するが、1882年に大隈重信が打ち立てた立憲改進党に入党した。そして彼のもとで学んだあと1890年の第一回衆議院議員選挙で岡山県の代議士となった。犬養木堂記念館の敷地には、これを記念した楠の巨木が今なお豊かな葉を生い茂らせている。ちなみに「木堂」というのは「論語」にある「口数は少なくとも真のしっかりした人物には思いやりの心があるだろう」という意味の「剛毅木訥近仁(ごうきぼくとつはじんにちかし)」から来ている。しかし彼は「朴訥」どころか議員としてスピーチをし続けた。もちろんその基礎は、慶應義塾の「三田演説館」で身に着けたものだろう。

諭吉は「学問のすゝめ」のなかでスピーチに至るまでの五段階を以下のようにしている。

「①観察 ②推理 ③読書 ④議論 ⑤演説」つまり、「よく見て、なぜそうなるのか考え、それを裏付ける資料を読み込み、議論によって反論に対する準備をし、そして明るくわかりやすく説くべし」というのだ。犬養毅のスピーチはまさにこれを踏襲していた。そして一方的な意見を何より嫌った。

「学問のすゝめ」には「およそ世に学問といひ、政治といふも、みな人間交際のためにするものにて、人間の交際あらざれば不用のものたるべし」、つまり人と人との交流こそが学問であり、政治なのだ。

 

アジア主義者としての犬養毅

薩長藩閥に強く反対した彼は、盟友尾崎行雄とともに憲法を守る議院内閣制を堅持する「護憲の神」と呼ばれた。一方で金玉均を支援して朝鮮の近代化に助力したり、辛亥革命の際には孫文を最後まで支援し続けたりするアジア主義者でもあった。亡命してきた孫文を、熊本の宮崎滔天のもとにかくまってもらうよう指示を出したのも、孫文の革命に資金を回したのも犬養毅だった。幼いころからの漢文と書で培ってきたアジアへの共感を基礎に置き、中国がアジア初の共和制国家に移行する際の「縁の下の力持ち」でありつづけたのは、恩師諭吉がなしえなかったことだ。

1925年、普通選挙法が成立すると、護憲派加藤高明内閣の逓信大臣だけでなく、議員も辞した。しかし岡山県の有権者たちは本人の許諾無しで彼を担ぎ出し、立候補させて選ばれた。憲政史上、これほどの「珍事件」もまずなかろう。彼はしぶしぶ引き受けたものの、長野県富士見町の白林荘という別荘に隠棲してしまった。付近には「帰去来荘」という別荘もある。気分は官吏から離れた陶淵明だったのだろう。彼には「文人」という言葉がよく似合う。ちなみにこのころの彼のスタイルは、着物の裾をはしょって杖をつく姿は、晩年の諭吉そっくりである。(続)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

PRその1

11月第2週から12月までの5週間、英語、中国語、韓国語の二次面接対策講座をzoomで行います。他にはない、試験だけの通訳・プレゼンのための対策ではない、通訳案内士としての現場まで重視した独自の講座の詳細はこちらからどうぞ!

https://secure02.red.shared-server.net/www.guideshiken.info/?page_id=109 

 

PRその2

 この紀行文の訳しにくい個所を集めて英語、中国語、韓国語に訳していく「日本のこころを訳し語る講座」を、以下の日時に開催いたします。

英語 11月1日19時半から21時半

中国語 11月8日19時半から21時半

韓国語 11月15日19時半から21時半

初回は無料ですので、ご関心のある方はぜひともご連絡くださいませ。

特に二次面接対策だけではなく、日本文化を翻訳するには最適の講座ですので、皆様のご参加をお待ちしております。

 

PRその3

オンラインサロン「名作を歩く」

地理・歴史・一般常識はzoomで楽しもう!


・通訳案内士試験対策に疲れた方
・日本の名作やその作者の背景について知りたい

そんな方は無料オンラインサロン「名作を歩く」にぜひご参加ください。

パーソナリティ:英中韓通訳案内士 高田直志
日時:毎週木曜の22時から22時30分(無料)


視聴・参加するには…
対象:「名作を歩く」および通訳案内士試験を受験される、または本試験に関心のある全ての方。
事前にこちらからご登録ください。(登録・視聴は無料です。)
https://secure02.red.shared-server.net/www.guideshiken.info/?page_id=109