「正法眼蔵」と道元の旅  京都、鎌倉に次ぐ禅の都、吉備 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

禅との出逢い

 私の実家は曹洞宗である。しかし私個人は母方の実家の浄土真宗の影響を強く受けた。没後に極楽往生を叶えてくれる浄土思想と、坐禅によって悟りを開く禅。阿弥陀如来に「正信偈」をあげる真宗と、釈迦如来に「般若心経」をあげる禅。同じ日本の仏教といえどもその内容は全く違う。

ちなみにGoogleで “Japanese Buddhism”の画像検索をすると、なぜか鎌倉大仏の姿がでてくる。高徳院阿弥陀如来像というのが正式だが、「阿弥陀如来」でありながら「坐禅」しているこの像が、世界の英語話者にとって「日本佛教」の典型的イメージなのだ。つまり海外では日本佛教=坐禅という図式が浮かぶのかもしれない。

ちなみに私は小学一年生のころから年に数回ずつ坐禅をしていた。とはいえ別に実家でさせられていたわけではない。生まれ育った現島根県雲南市の木次(きすき)という町では、曹洞宗寺院と浄土宗寺院、そして真宗寺院が合同で月に二回「佛教日曜学校」を開いていたため、宗派を超えた佛教教育を受ける機会に恵まれたのだ。その一環としてしびれる脚をさすりながら坐禅をし、幼い声をはりあげて「般若心経」をあげていたのである。そういう意味では幼いころから禅に触れてきたと言えよう。

吉備―桃太郎VS鬼という構造

禅というとまず京都、次に鎌倉を思い浮かべることだろうが、それに次ぐ禅にゆかりのある地というとどの地域や町を思い浮かべられるだろうか。私の場合、日本各地を歩き回って出た結果が、「吉備」すなわち岡山県だった。ここでピンとくる方はかなり禅に詳しい方か、岡山県民だろうが、今回の旅は日本における禅に関して非常に重要な場、吉備から歩いてみたい。

「吉備」というと、古代においては朝廷の配下で山陰山陽、そして瀬戸内海航路の要衝をおさえた王国というイメージが強い。JR岡山駅を降りると出迎えてくれるのがイヌ、サル、キジを従えた桃太郎の像であるが、彼に歴史上の名称があったとすれば「吉備津彦命」、つまり現代語訳で「ミスター吉備」である。

彼に関する伝承の地も吉備のいたるところで見られる。例えば弥生時代最大の墳丘墓とされる倉敷市の楯築(たてつき)遺跡などは、頂上に石碑のような巨石が並んでいるが、これは吉備津彦がたてこもった際の楯として使われたものと言われる。

そして例の「鬼」がたてこもったのは、ここから北西、総社市の山上にのこる圧巻なほどの巨石群で構築された「鬼ノ城」とされる。ここでは「鬼」の名は温羅(うら)といい、悪いことをするどころか、たたら製鉄などの技術を吉備の地に伝えた渡来人ということになっている。つまり、桃太郎の鬼退治伝説とは、朝廷から送られてきた吉備津彦が、現地で勢力を広げてきた渡来人、温羅を服従させるという話になっているのだ。いわば、全国的に名高い桃太郎は勢力の強化と安定を図る「体制派」である一方で、反体制的な「鬼」とされても愚直なまでに吉備の発展に尽くした温羅のことを吉備の人々は忘れてはいないようなのだ。

そしてこの「桃太郎」VS「鬼」というシンボル対立の構造は、その後の禅の発展にも影響を与えた。

 

吉備津神社と栄西

吉備津彦命を祭る神社が岡山市郊外に鎮座する「吉備津神社」である。国宝の社殿や360mにも及ぶ回廊を誇るこの神社は備中の一宮として知られてきた。1141年にこの神社の権禰宜(ごんねぎ)の子として、現吉備中央町の賀陽(かや)あたりで生まれたとされるのが、後の栄西禅師である。「かや」という地名からして、彼も先祖をたどれば「伽耶(かや)」からの渡来系なのだろう。父を殺された少年時代の彼は、後に比叡山で得度し、入宋して日本に臨済宗の禅を持ち帰り、京都の建仁寺を拠点として禅を広めていくことになった。

古代においては、朝廷に対してうまく立ち回った吉備津彦的な政治的センスを彼は身に着けていたように思える。そしてそれは後に京都や鎌倉において、将軍や執権、皇室などの庇護のもとで臨済宗が勢力を拡大するとともに、この国の精神文化を担っていくことになった理由でもある。やはりなにごとも先立つものはカネと権力なのだ。そのことはおいおい見ていくとして、日本の禅は、まさにこの吉備津神社の権禰宜の子がもたらした。これが日本の禅を考えるうえで吉備を重要視する一つ目の理由である。

 

雪舟のふるさと、総社

 一人で六点の作品が国宝指定されている日本唯一の人物は誰だろう。明に学んで「四季山水図巻」「周到山水図」など、本格的な水墨画を日本に伝えるだけでなく、「天橋立図」のように日本の風景までをも水墨画で描いた彼は、画僧としてのイメージが強いとはいえ、原則的には禅僧である。

 15世紀に現総社市で生まれ、地元の名刹宝福寺で修行した際、絵画ばかりに熱中し、参禅を怠った罰として柱に縛りつけられたが、涙を墨に、足の指を筆に、そして床を半紙代わりにネズミの絵を描いたところ、和尚さんが本物のネズミがいると勘違いしたという逸話を残している。現在も境内にはその時の様子が石像で再現されている。 このトリックアート(?)のような逸話は彼の才能を誇張した話に過ぎないにしても、彼の才能が幼いころから発揮されていたことがうかがえる。

 後に彼は京都五山で天龍寺に次ぐ第二位の相国寺で修行し、そこで禅とともに水墨画を身に着け、当時中国地方で最大の勢力を誇っていた山口の大内氏の支援を受け、明で絵を学んだ。当時、明朝で最も有名な日本人としてその名をはせた雪舟だが、権力者の支持を受けてきた相国寺で学んだり、将軍よりも権力を握っていた山口の大内に頼ったりする点など、単なるアーティストではなく、アーティストとしての活動のパトロンを探す術にもたけていたようだ。

 なお、坐禅だけが禅ではない。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、つまり一日二十四時間、目の前のことにしっかりと取り組むことが禅なのなら、彼のように絵をかくことも禅の一環だったに違いない。そしてこの発想は水墨画という禅芸術と、それを三次元化させた禅庭という形式で日本文化を豊かにしてきた。雪舟の庭は、山口市の常栄寺や、島根県益田市萬福寺・医王寺など、各地に点在する。雪舟にとって水墨画とは庭の設計図ではなかったかと思うほど、二次元の水墨画と三次元の禅庭を自由に行き来し、禅文化をつくっていった雪舟もまた、吉備人だったのだ。