長明の「いざ、鎌倉」 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

長明の「いざ、鎌倉」

彼がこの日野の山奥で「方丈記」を書く前年の1211年、実は大旅行をしている。目的地は新興の武士の都、鎌倉である。連れ立って行ったのは、「新古今和歌集」編纂時の同僚にして歌仲間の飛鳥井雅経である。百人一首では「参議雅経」として、次の歌で知られる。

 み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣うつなり (新古今和歌集)

雅経は後鳥羽上皇や藤原定家の下で選歌をするほどの才能を持つため、源頼朝からも寵愛を受けており、二代将軍頼家や、「和歌将軍」だった三代将軍実朝とも親交が深かった。このたび雅経は亡き頼朝公の法要が鎌倉の法華堂で行われたのに呼ばれ、その際、日野の山中で世捨て人となって老いゆくかつての歌仲間に、死ぬ前に花を持たせてやろうという「友情」から、和歌や琵琶に関するそれなりの仕事を与えてほしい旨を事前に根回しして鎌倉に下ったのだ。御家人ではないので将軍との間に「御恩と奉公」の関係はないが、自分の残りの人生をかけ「いざ、鎌倉」の心境だったかもしれない。

現在「武家の古都」鎌倉を歩きつつ、当時を偲ぶのは難しい。そもそも鎌倉市内に鎌倉時代の建造物は皆無である。しかし地形は昔のままだ。鶴岡八幡宮を中心にして、南にのびる若宮大路が由比ガ浜に向かう。この構図は当時ならば京都御所から南にまっすぐのびる朱雀大路、現在ならば烏丸通に見立てることができる。そして由比ガ浜の海岸は、近代に入って完全に埋め立てられた巨椋池(おぐらいけ)を思い起こさせる。ちなみに巨椋池は、現在の宇治市の平等院近くを流れる宇治川から、京都・大阪府の境で木津川・桂川と合流する地帯まで広がる、日本一の池だったという。さらに、北山や東山に該当する山々に囲まれたこの町は、少なくとも現代人にとっては古都・京都の地形を思わせるかもしれない。

活気があり、ピカピカ輝かしこの新興都市を訪れた京都の文人鴨長明はどう感じただろうか。おそらく災害続きとはいえど王朝文化の残り香のあった京都と比べると、鎌倉は文化的深みもなく、そこで見たものも京都の文化を劣化版コピーした薄っぺらいものに過ぎなかったのではなかろうか。

 

武家の都、鎌倉への違和感と「就活」失敗

そもそも武家社会というのは、公家文化の中で過ごしてきた彼にとって全く異質のものだったろう。鶴岡八幡宮は京都・男山の石清水八幡宮を勧請したものであるが、この京都文化の権化をシンボルとする以外に、あまり見るべきものはなかったようだ。例えば高徳院阿弥陀如来坐像、すなわち鎌倉大仏も建長寺・円覚寺といった禅寺も、その時には建立の計画さえない。たとえあったとしても、出来上がったばかりの大寺院など、長明からみれば成金趣味にしか思えなかったことだろう。それはいわば現代日本人が中国の深圳やUAEのドバイなどを訪れたとき、政治的、経済的活気は感じるが、長い伝統に基づくしめやかで文化的な香りが感じられないようなものかもしれない。

この町のどこか、おそらくは八幡宮の東に当時あった大倉幕府あたりで、雅経は長明を時の三代将軍実朝に引き合わせたことだろう。今は手狭な低層住宅地域となっているこの地域も、昔は東日本の中心だったのだ。実朝の和歌の才能も群を抜いており、後鳥羽上皇に師事しつつ、藤原定家にも和歌の添削などを頼むほどだった。そのようなサロンの中にいた長明なので、さぞ話が盛り上がるかと思いきや、結局のところ実朝と長明の間には縁がなかったようだ。就活失敗である。長明は得意の琵琶を披露することもなく、本気で作った和歌を若き将軍に捧げることもないまま、鎌倉を去った。

 

鶴岡八幡宮

鎌倉幕府の象徴であり、軍神、八幡神を祭る鶴岡八幡宮本宮。その石段の横に銀杏の巨木があった。長明が鎌倉を去って8年後の1219年、二代将軍頼家の息子、公暁(くぎょう)が、叔父にあたる実朝が本宮に上がるのを待ち構え、殺害したことで源氏の将軍は途絶える。鎌倉将軍家と京都の天皇家が表面上うまくいっていたのは、「新古今和歌集」を編纂させた後鳥羽上皇やそれを選定しただけでなく「小倉百人一首」をもまとめた藤原定家、そして武家による初めてのアンソロジー、「金槐和歌集」をその数年後にまとめているほどの実朝将軍によって「和歌」という貴族文化の精神的遺産を共有することにより絶妙なバランスで保たれていた。

そのつながりがなくなり、武骨な北条家が執権となるや、京都と鎌倉の関係は悪化し、二年後の1221年に上皇は二代執権北条義時を追討する院宣を出した。それに対して実朝の母にして頼朝の妻だった北条政子が、大勢の御家人相手に、関東の幕府を打ち立てた頼朝公のおかげで御家人の所領も増加・安定し、京都などに使役されずにすむようになった御恩に報いよという旨を、この鎌倉で演説したという。日本史上、演説で、しかも女性の演説で荒くれ武者どもが動いたということは後にも先にもない。

そしてこの「承久の乱」によって後鳥後鳥羽は破れ、隠岐に流されるが、そこでも「新古今和歌集」の校正に校正を重ねていたという。「新古今和歌集」は華やかなりし王朝時代の挽歌でもあったのだ。ある意味、長明がこの選歌に携わりつつも河合神社の禰宜になれないとなると出奔したというのは、平安京の貴族社会から逃げ出したことを意味し、実朝に会いに行きながら「就活」に失敗したというのは、新しい時代の武家社会からも受け入れられなかったことを象徴的に表している。

二つの時代のはざまに落ちたこの天才が、住み慣れた京都につくまでの足取りは重かったに違いない。しかし日野の山には彼を待つ少年がいた。そして彼は自分の一生と、人や世の中に対して思うことを書き連ねた。これが「方丈記」となった。

 

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