「遠野物語」ーカッパと飢餓と「アフターライフ・サイクル」 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

カッパ大国日本?

遠野のみならず、日本各地に河童伝説がある。國男のふるさとの兵庫県の辻川では「河太郎(ガタロウ)」と呼ばれ、また第二のふるさと茨城県の布川からほどちかい牛久沼や手賀沼にも河童伝説がある。これらの地には例外なく河童の銅像が作られている。ちなみに牛久沼では河童の水墨画を描き続けたことでしられる小川芋銭(うせん)の旧居もあるが、國男とは面識がなかったらしい。

一方、当時山手線から常磐線に枝分かれしていた田端駅周辺には大正時代文人のコミューン「田端文士村」が存在した。そこの「顔役」だった芥川龍之介は上高地の河童に社会風刺をさせる「河童」を発表したが、それも國男と出会って着想を得たものという。

その他にも日本各地に河童が出没するようだが、遠野にもその名も「カッパ淵」がある。狐や狸、鬼などの日本の妖怪と同じく、河童にもユーモラスなイメージがある。ここ、遠野の河童も御多分に漏れず、馬を沼に引きずり込もうとしたが村人たちに捕まり、二度としないと約束させられて釈放されたりする間抜けな存在に思われている。

そうかと思えば生まれた子に水かきがあったため河童の子だとされ、切り刻まれて樽に詰められたというグロテスクな話、さらに生まれた子が河童だったので道端に棄てたが、気になって戻った時にはいなかった話などもある。ちなみになぜ棄てた子が気になったかというと、かわいそうだからではなく、見世物小屋に売れば金になったのにと思ったからだ。さらにある集落では二代にわたって河童の子を産んだ士族の娘がいて、今は村会議員をしているなど、都市伝説的なシュールさがそこにある。

 

遠野のカッパ淵の癒されない話

常堅寺の裏手にあるカッパ淵は、他の河童伝説の地と同じくいかにも河童が出そうな雰囲気の静かな流れの小川であるが、竹竿の先に河童の好物のキュウリが結びついたひもをつらしている。他の土地でやったら観光客用のウケねらいか話題作り、あるいは観光協会の「SNS対策」かと思われがちだが、ここでの河童は実在するものと信じられているため、都会人からするとあからさまな集客目的とは言えないその素朴な試みがウケるのだろう。

とはいえ、遠野における河童伝説の真相はほのぼのとしたものとは程遠い。ここにも飢餓の影が認められるからだ。「遠野物語」に出てくる生まれたばかりの河童の子を殺す話は、河童だから殺したのではない。飢餓で育てられない時に生まれてきた子どもだったので、河童ということにして間引いたのだ。親としては気が咎めるどころではない。國男少年が布川の寺で見た「間引き絵馬」そのものの世界が遠野でも何度も起こっていたのだ。

 

五百羅漢という餓死者の墓標

飢饉といえば、天明の飢饉、天保の飢饉など、なんどもの飢饉が日本中を襲った。特に夏に吹く北東風のやませを受けやすいため、奥州の冷害の惨状は想像を絶する。遠野のはずれの山肌の岩々に五百羅漢が彫られている。羅漢とは仏の弟子だが、ここの羅漢は18世紀半ばの宝暦の大飢饉で餓死した人々を弔ったところだ。五百羅漢だから餓死者数も五百人かといえばそうではない。遠野のみでその五倍、南部藩全体ではなんと六万人以上もの人が餓死、または病死したという。まさに生き地獄だ。

南部藩の支藩の現青森県八戸には、安藤昌益という医者がいた。町人の身分ながら思想家でもあった彼は、「自然真営道」なる本を著し、人間の決めた道よりも天地の決めた自然の道に帰ることを主張した。ここには國男が宮崎県の椎葉村で見た自然の恵みに感謝しつつ狩猟を行い、焼畑農業によってコメができないところにも蕎麦や稗、粟などを植えて生き続けてきた人間の営みが書かれている。

六万人もの餓死者を出した南部藩の構造的問題として、まず日本全体で稲作農家が畑作農家より格上という意識が浸透していたことが挙げられる。確かに白米はうまい。しかし亜熱帯植物だった稲を寒冷地で冷害に襲われる東北で作ること自体、自然の摂理に逆らっている。「米は雑穀より上」という人間が決めたモノサシを捨て、椎葉村のように蕎麦や稗、粟を中心に農政を敷いていたら、あのような悲劇は起こりにくかったのではないか。安藤昌益はさしずめ自然の声に従うエコロジストだった。

 

南部藩にまで押し寄せた「資本主義経済」の影と「イノシシけがつ」

加えて挙げられるのは当時芽生え始めた資本主義経済がある。江戸で味噌や醤油の使用量が激増したため、当地でも原料となる大豆を焼畑農業で作り始めた。ただ、椎葉村のように傾斜地を四年耕したら二十五年以上休耕地とするような余裕はない。商品作物を現金化して大都市で消費するという資本主義に巻き込まれた当地では、椎葉村のようなのんびりした農業は営めない。そこで土地はやせ、増える一方の休耕地にワラビやクズなどが自生した。それを狙ってイノシシが大発生し、これらを食い尽くした後は、人間の耕作地を狙うようになった。「イノシシ飢饉(けがつ)」と呼ばれるゆえんである。

目の前の五百人の羅漢のなかには百姓だけでなく武士階級もいたことだろうが、安藤昌益は士農工商という階級社会そのものを、人間のこざかしい知恵ででっち上げたかりそめのものとして猛烈に批判した。彼の造語に「直耕(ちょっこう)」というものがある。農民だけでなく、武士や町人を含むすべての人が直接耕作に従事せよ、という意味だ。武士は農民の血と汗と涙に寄生しているにすぎない。納税者が死ねば、徴税者も死ぬのだ。

仮に目先の現金に惑わされず、自然に従って農耕をすれば、うまいコメは食えなくても五百羅漢など作る必要もなければ、悲惨な河童伝説も生まれないですんだのに。岩に彫られた無数の苔むした五百羅漢の視線を浴びながら、冥福を祈るとともに、早池峰山の向こうで声をはり上げてイノシシけがつと戦った奥州の反資本主義的なコミュニスト、安藤昌益のことを想った。

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デンデラ野=老々介護のグループホーム?

遠野から北東にしばらく行ったところに「デンデラ野」と呼ばれる扇状地がある。「デンデラ」とは「蓮台」、すなわち極楽の蓮の葉のことというが、実に物寂しい谷間である。

昔、遠野では還暦を過ぎるとここに連れてこられ、お年寄り同士で共同生活をすることになっていた。全国各地に伝わる棄老伝説の一つだが、ここは姥捨て「山」ではなく野原である。よそでは山に連れていかれたら数日のうちに亡くなるだろうが、ここに連れてこられたお年寄りは違う。藁で作った竪穴住居が復元されているが、昼間はここから田畑を耕しに通っていたという。そして道を挟んだところにダンノハナという場所がある。ここはデンデラ野で亡くなったお年寄りたちの墓であり、お堂が建っている。

これを現代的に解釈すると、後期高齢者が老々介護のグループホームに住みながら、昼は仕事に行く。亡くなると裏手にある葬祭会館で葬儀をして、永代供養塔に入れられる。というようなものだろうか。現代人は葬祭会館や墓地などが高齢者施設の裏手にあるのをタブー視しがちだが、遠野の人々は「生病老死」が循環するものであるという事実を視覚化することで、受け入れていたかのようだ。

高齢者にとって死がタブーとなって久しい。これに関しては私も大失言をしたことがある。通訳案内士が集まるパーティに参加した際、後期高齢者の大先輩が体調を崩して倒れられた。すぐに家の方に電話をし、迎えに来ていただくことになった。その時、私は業界の大先輩に「すぐに『お迎え』がきますよ!」と言ってしまって、「あれ?」と思った。それを聞いた周囲のガイド仲間は後で失笑しながら注意してくれた。

閑話休題。遠野は浄土宗や浄土真宗が盛んなところではないため「お迎え」=阿弥陀佛の来迎という死生観は弱いかもしれないが、村で生まれ、還暦を迎えたら村はずれのデンデラ野に行き、野良仕事をしながら生き続け、亡くなったら隣接地のダンノハナ。そしてその後、魂はおそらく盆地を見下ろす北上高地最高峰、高山植物生い茂る早池峰山に宿り、お盆や正月など、ことあるごとに里に戻る、という「アフターライフ・サイクル」まで可視化されていたのだ。

 

死者の魂はどこへ?

終戦の年、柳田國男は周囲の数多くの死にゆく人々を見ながら「先祖の話」の著述に取り組んでいた。特に空襲で家族が全滅したり、また子どももいないまま亡くなったりした人の魂はどこにいくのかという当然の疑問に対して、彼は民俗学的に解説していった。やはり日本の大多数を占める「常民」、すなわち農業等に携わり、定住生活をする人々にとって、死者の魂はどこか高いところを浮遊しているという感覚がしっくりくる。そしてそれらが定着する場所が高いところとしては、まず山が連想されるのだろう。

うちの墓は島根県安来市の仲仙寺の丘の上にあるが、平野の向こうには晴れていれば中国山地の最高峰、大山(だいせん)の秀麗な姿がのぞめる。それが先祖の魂の墓標代わりとするならば、先祖の魂もあそこから私たちを見守り、盆や正月に帰ってくるのかもしれない。そんな想像力をかきたてる。ちなみにその丘からは病院ものぞめるだけでなく、丘から降りると200mほどで葬祭会館がある。ここも遠野のように生と死と死後の循環が見られる。

一方、東京では下町と山の手の境にあたる日暮里に住んでいた。最寄りの墓地は谷中霊園だ。しかしそこから見える範囲に、病院や高齢者施設はほぼない。大都会の真ん中にいきなり死者の世界が広がるにも関わらず、「デンデラ野的緩衝地帯」が存在しないのが気になる。

あえていうならそこから3㎞ほど離れた東京最大のドヤ街、山谷では、簡易宿泊所住まいのホームレスの高齢者が廃品回収などをしているのを見る。周囲寺院に墓地は多いが、すべて檀家さんの墓であり、ホームレス用ではない。魂の戻る場所である山は全く見えない。まさかスカイツリーを墓標とするホームレスもいまい。そもそも定住者でないホームレスは柳田國男の研究対象とする「常民」に含まれない。

東京では死をタブー視するあまりか、生の延長線上に死があるという現実、そして「老い」とはその「幕間」にあるという見方、さらには死んだら終わりなのではなく、魂が山のようにどこか高いところに戻っては、盆や正月に子孫のところに帰ってくるという想像上の循環を「非科学的」として切り捨てたように思える。

一方、デンデラ野や、それに類似した私のふるさとでは、その循環性が目に見える形で存在する。民俗学の目的の一つに、「生命のあり方」の再確認によって、老いること、死ぬことに対する恐怖を取り除くことがあるのではないか。そうであるのなら東京などの大都市で今後も増加が見込まれる独居老人および自分の墓を見てくれる子孫のない人々にこそ、この学問が役立つのかもしれない、などと思いつつ、遠野を去った。