出雲から奈良・平城宮へ | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

「出雲と大和」

 2020年は「日本書紀」編纂1300年記念であった。そのため東京国立博物館で「出雲と大和」展が開催されていたので見学に行った。そこでは日本に唯一ほぼ完全な形で残る最古の地誌「出雲國風土記」、出雲市の荒神谷遺跡から出土した国内出土の過半数に及ぶ358本の銅剣、雲南市の加茂岩倉遺跡から出土した国内最多39個の銅鐸、そして高さ48mあったという出雲大社本殿の10分の1スケールの模型や、本殿を支えた宇豆(うづ)柱など、これまで何度も見てきた古代出雲の息吹が感じられるものが凝縮されていた。

 それらのコーナーが終わると、「物量作戦」にも思える仏教文化中心の大和の出土品および仏像群が並ぶ。「シルクロードの終着点」と言われるだけあって、国際的な華やかさであふれている。見ながら出雲の存在が霞んできた。「まてよ、これはどこかで感じたことがある」と、デジャヴのようなものを感じた。そして思い当たったのが出雲から高速バスと近鉄を乗り継いで、奈良まで行ったときのことだった。

「古事記」「日本書紀」にあるとおり、出雲と大和(奈良)には征服被征服への確執があったようだ。奈良に着くや感じるのが、この町の建造物の巨大さと国際性である。今はそれほどでもないが、往時には中央の道幅が100mをこえていたという。また、東大寺大仏殿の巨大さに興福寺猿沢の池の塔の高さ。興福寺中金堂や薬師寺西塔などの復元建築の放つ丹青や金銀の華々しさ。これらは出雲でほぼみられない。目で見てその大きさを実感できるものは皆無に等しい。それに比べると大和の壮麗さは、異様ですらある。

 

「あおによし奈良の都」

 「万葉集」にも平城京の繁栄を詠んだ有名な一首がある。

「青丹(あおに)よし寧楽(なら)の都は 咲く花の薫ふがごとく 今盛りなり (ライトグリーンにレッドの華やかさが引き立つ奈良の都は満開の花の香りが漂うかのようだ。)」 

これは大宰府にいた小野老(おののおゆ)が、故郷の奈良を遠くから懐かしんだものである。また、大伴家持も越中で奈良を想いながら一首詠んだ。

「春の日に 張れる柳を取り持ちて 見れば都の 大路し思ほゆ(春に差す陽だまりの中で萌える柳の芽を手に取ってみていると、奈良の都大路に揺れる柳の木々が思い出される)」

 この当時、柳とは「舶来」の木であったが、越中でもそれを見て思い出すのがグローバル・シティとしてのふるさと・奈良だったのだ。都を離れた彼らは望郷の念に駆られたのだろう。それが最もよく感じられるところとして平城宮跡がある。平成の国家事業としての大規模な復原で、往時の威容と華麗な美がよみがえった。

 

復原遣唐使船

 いかにも郊外といった殺風景な大宮通りを行くと、唐突に遣唐使船が現れる。正直、周りの風景にそぐわない。そもそも陸地に池を掘って長さ約30mもの船を浮かべると、窮屈に見える。当時から遣唐使船が造られたという現広島県呉市倉橋島には、瀬戸内海に面したところにこれとそっくりの遣唐使船の実物大模型が展示されているが、「借景」が海であるのと住宅地であるのは雰囲気が全く違う。倉橋島のほうは今にも船出せんという勢いが感じられるのに対し、平城宮のほうはおもちゃのようにみえてしまう。

 それはさておき、山上憶良たちもこれに乗って唐にわたったのだろう。唐からの帰国前に、彼はこの上ないほどわかりやすい歌を詠んでいる。

「いざ子ども はやく日本(やまと)へ 大伴の御津(みつ)の浜松 待ち恋ひぬらむ(さあ、みなの者、早く日本へ船出しようではないか。上陸地難波の港の浜の松が我々に会おうと待ち焦がれているぞ)」

彼らを送る側の気持ちも、再び会えないことを念頭に置いたものだった。人麻呂は遣唐使を送るときにこのような長歌を詠んでいる。

「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙(ことあ)げせぬ国 しかれども 言挙げぞ吾がする 言幸(ことさき)く ま幸(さき)くませと 障(つつ)みなく 幸くいまさば 荒礒波(ありそなみ) ありても見むと 百重(ももへ)波 千重(ちへ)波にしき 言挙げす我れは 言挙げす我れは(日本では、神々のなすがままになにごとも素直に受け入れ、それに対してはっきりと口に出して意見しないもの。でも今ばかりははっきりと言わせてほしい。くれぐれもご無事で、生きて帰ってきてほしい。磯に寄せては返す波のように、私は何度でも繰り返す。どうぞご無事で。生きて帰ってきて、また会えますように。)」

 

遣新羅使と「斎(いは)へ神たち」

また遣唐使の陰に隠れて目立たないが、回数的にはそれ以上に派遣されたのが七世紀後半から八世紀後半にかけて新羅に渡った、遣新羅使である。これも命がけの渡航であった。光明皇后は春日神社に参拝した際、次のような歌を捧げた。

「大船に 真楫(まかじ)しじ貫き この吾子(あこ)を 韓国(からくに)へ遣(や)る 斎(いは)へ神たち(櫓をたくさんつけた遣新羅使船に乗って、我が子同然の遣いの者たちは新羅に向かいます。神様、どうぞお守りください。)」

 しかしここの復元遣唐使船は、歴史的な考証はある程度なされていても、市街地の小さな池にあるのでは、決死の覚悟や悲壮感、彼らを見送る人々の想いは伝わりにくい。その時は倉橋島を訪れたほうがよさそうだ。

 

朱雀門と平城京のシンボルカラー「丹青」

遣唐使船から幅74mの朱雀大路を北上する。その両脇を飾るのが越中の家持が懐かしんだ柳の木だ。710年、平城京遷都の時、「まつろわぬ(反抗的な)」者とされた蝦夷や隼人を率いてここを行進したのが大伴旅人だった。そして正面に復原された朱雀門は、赤と白が基調だが、部分的にライトグリーンがあしらわれている。この赤とライトグリーンの配色を「丹青」といい、唐文化のシンボルカラーだった。この塗料から、「奈良(寧楽)」にかかる枕詞が「青丹よし」となった。ちなみに丹青の色柄は、唐だけではなく朝鮮半島とも共通する。「奈良」のシンボルカラーはこのグローバル色なのだ。

 朱雀門をくぐると、広大な空き地が広がる。散歩をするお年寄り、凧揚げに興じる親子、バドミントンをする子どもたちなど、まさに市民の憩いの場となっている。なぜか現代中国の都市公園のような感じだ。かなり遠くに見えるのが建設中の南門、そしてその北には大極殿である。1300年前の建設中の平城宮もこのような感じだったのだろうか、などと想像をふくらます。心の中で雅楽が鳴り響くかのようだ。

そのほか、大極殿や東院庭園など、天平の面影を偲ばせる復原物がこの広大な公園に点在する。史跡というよりもテーマパークに近い。それにしても奈良市内でこれほど大きな空間は他にない。長安を移植したという大陸的スケールが感じられる。 

 と思いきや、どこからかガタンゴトンという音が聞こえ、目の前100mあたりを電車が駆け抜ける。近鉄の車両を見ながら、21世紀の現実世界に引き戻された。天平ムードが台無しであるが、天平の世界を駆け抜ける電車というのはシュールでもあった。

 

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