東京から茨城への心理的距離
茨城県から東京に通う、というと、都民は二時間くらいかけて来ているのかと勘違いする人もいる。しかし取手から常磐線で最寄りの山手線駅である日暮里や上野までは40分かからない。その近さに都民は意外に感じるかもしれないが、逆に言うと都民にとって茨城県への「心理的距離」はそれほど遠いということなのだろう。しかし取手に住む私が下り列車に乗ると、物理的な距離の長さに気が遠くなる。
ちなみに茨城県は一般的に五つのエリアに分かれる。水戸市を中心とした県央、筑波山の南で、土浦やつくばを中心とした県南、筑波山の西で古河や常総を中心とした県西、福島県との境で、日立市を中心とした県北(けんぽく)、そして霞ヶ浦の東の鹿島、行方(なめがた)を中心とした鹿行(ろっこう)である。 県南の県南-取手に住む私にとって、最も遠いところが県北のさらに北部ということになる。
取手から二時間半以上、普通列車に乗り込んで北を目指す。常磐線は取手までは都心と同じ列車だが、そこから北は乗車、下車の際に乗客がボタンを押してドアを開ける。自動で開けても夏の冷気や冬の暖気が外に漏れるだけだから、こうなっているのだ。筑波山と田畑が見えなくなってしばらくすると水戸である。さらに北に向かい、日立あたりからいきなり青い太平洋が車窓に広がった。その後は大海原が見えたり見えなかったりの「かくれんぼ」を繰り広げる。
「東洋のバルビゾン」五浦
ようやく県北の最北端、大津港駅に着く。駅舎の門の柱がベンガラ色で、いぶし銀の屋根瓦がふかれている。これから目指す六角堂を模しまものだ。六角堂とは、1903年に五浦を訪れた彼がこの地をいたく気に入ったため、ここに別荘を建て、思索と休養の場としたものである。
その後1906年には日暮里・谷中にあった日本美術院をこの地に移し、「落穂ひろい」や「種まく人」などを描いたミレーらが住んだ農村、バルビゾンになぞらえて、「東洋のバルビゾン」をこの地につくるべく、横山大観、下山観山、菱田春草らと共同生活しつつ、日本画の大成に全力をあげた。
「六角」なのは、杜甫の草堂が六角形だったことに由来するともいわれるが、若き日に文部省の調査員とともにフェノロサとともに訪れた法隆寺夢殿からヒントを得たものともいわれる。上野の東京藝大や、谷中の岡倉天心記念公園、そしてこの大津港駅でも、天心にゆかりあるところには六角堂がつきものだ。
空気や霧まで表現する「朦朧体」
駅前でタクシーを拾って天心記念五浦美術館に向かう。彼の弟子たちの作品が定期的に入れ替わりながら展示されているが、やはりいずれも共通して目に付くのは、部外者からは「朦朧体」と批判された、もやのような表現法である。多湿の日本列島においてはもやがかかりがちだが、それを、線を使わずにぼかすことによって表現したものだ。おそらく五浦の海も日によってはこのような霧に包まれるのだろう。
それにしても空気にしみこんだ湿度まで表現するというのは、たいがいのことではない。そしてその湿り気こそ日本の風土の特徴なのだ。私は二十代の頃中朝露国境の町に住んでいたが、一年中乾燥しており、日本の風土の持つ湿り気に対して望郷さえ感じていた。それを「みえる化」する技法が生まれたのがこの地なのだ。
ところで天心自身はボストン美術館での仕事もあって経済的にも潤っていたが、弟子たちはお金になる仕事もなく、逼迫した生活のなか、ただひたすら師を信じて作画に取り組むのみだった。弟子だけでなく、天心の弟子でもない彼らの妻たちの内助の功なくして成し遂げられなかったろう。
松林の中を迎えてくれる五浦釣人像
美術館の外に出て、潮風に吹かれながら六角堂に向かった。松林のかさかさいうさざめきと潮騒のシンフォニーを楽しみながら石段を下りていくと、天心記念館があった。そこで平櫛田中の「五浦釣人(いづらちょうじん)」という、ここの海岸で太公望を決め込む天心の像が迎えてくれた。道士の帽子をかぶり、手に釣竿とタモ網を手にした彼の姿は、アジアの美のエッセンスを体現した日本の美を、英語で世界に伝えようなどというファイティングポーズではなく、老荘的な脱俗そのものだ。
アメリカの地で常に日本を、アジアを意識しつつ戦ってきた彼だからこそ、日本では東京や京都などではなく、あえて五浦の海岸のようなところで「無」に戻り、「空」になる必要があったのだろう。
見終えてから改めて六角堂に向かった。青い太平洋の絶景。そして磯が水を池のように囲むその端にベンガラ色の六角堂がたたずんでいた。東日本大震災の津波により、木っ端みじんに破壊され、流されたが、その後人々の寄付や再建運動で見事甦ったものだ。
それにしても稀に見る海岸の絶景である。ただ、ここは雄大さよりも庭園的、箱庭的な美しさである。それは六角堂の100m以内のところに長く磯が横たわることで外海と内海を隔てており、内海が池泉回遊式庭園、外海が借景のように見えるからなのかもしれない。私もこのようなところにあずまやを建てて大海原を眺めたいものである。
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