③中江藤樹の教え子たちと伊予大洲・近江高島(「代表的日本人」内村鑑三) | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

③中江藤樹の教え子たちと伊予大洲・近江高島

理=メカニズム志向の朱子学

「陽明学」。主流が嫌いで反体制に憧れがちな私には、実に魅力的な響きのある学問の流派だ。「代表的日本人」の中で内村鑑三は日本陽明学の祖、中江藤樹を選んだという事実は極めて興味深い。これはいわば「日本を代表する政治家は?」と問う外国人に、自民党員ではなく共産党員かれいわ新撰組の人々を紹介するようなものだからである。彼を紹介する前に、まずは儒学の流れについてまとめておきたい。

そもそも儒学の本流は紀元前の孔子や孟子であるが、それを修身や治国のシステムとして体系づけたのは宋(12世紀)の福建人、朱子だった。「日中韓とも儒教を共有している」などという場合の「儒教」とは一般的に彼の大成した「朱子学」を意味しているが、この学問で特徴的なのは、「理気二元論」と「性即理」だと思う。

朱子曰く、「この世のものは全て『気(≒物質)』と『理(物質を動かすメカニズム)』からなる。例えば、春になると梅が咲いた。梅の花そのものは『気(≒物質)』だが、寒い季節から暖かくなると梅が咲く、というメカニズムは『理』である。そしてメカニズムこそ物質を支配している。」

また、「性即理」とは、人間のもって生まれた「性(本質)」も、このメカニズムによって決まるという考えだ。だから、そのメカニズムに背かないように、自己を鍛錬し、学ぶことで、科挙に合格して行政に携わる士大夫となる。そしてその影響を一族から町中、国中に及ぼせば、世の中はよくなる、という。この朱子学は明朝と李氏朝鮮時代の国教となり、江戸時代の官学でもあった。

 

メカニズムは本当の自分の強い心!の王陽明

しかし明代(16世紀)の紹興に生まれ育った王陽明は、「心即理」、つまり「メカニズムというのは自分の心が決めるのであって、外部にあるものではない」、とこれに異を唱えた。また、「致良知」、すなわち自分が生まれながらに持っていたきれいな心(=良知)が曇ると、物事の判断基準やメカニズムも狂ってくる。よって常に心を磨き続けなければならないともいう。

曰く「もっと自分を信じろ。しかし独善に走らないためにも、学問をする必要がある。その学問と言っても本の虫になるのではない。陽明学の「学問」とは日常の仕事に真剣に取り組むことによって学ぶことであり、がり勉による机上の空論ではない、実践哲学を身に着けるのだ。これを「知行合一」という。そして怠けそうになったら思い出せ。山賊を退治することより、自分の弱い心を退治するのははるかに難しい。そうして鍛えた強い心こそがこの世のメカニズムや判断基準になるのだ。え?そんなので科挙に受かるかって?自分の心を正しく持たずに暗記ばかりしている奴は、運よく科挙に受かっても国をよくする士大夫にはなれない。心を磨き続ければ結果はついてくる!」

両者を極端に単純化したが、理知的な朱子に対して現場のたたき上げのオヤジ的な王陽明の特異さが際立つ。

 

中江藤樹を知りに伊予大洲へ

中江藤樹は1608年、近江に生まれ、米子の義父のもとで1年過ごした後、伊予に転封となった父について十代を伊予大洲で過ごした。私はある年の暮れの雨の日に大洲を訪れた。中江邸跡地に建てられた大洲高校の中に、彼の徳を偲ぶ「至徳堂」があるというので訪れてみた。公立高校に儒教の施設があるのは極めて珍しい。さらに、高校生たちが見ず知らずのこのおっさんに、笑顔で挨拶してくれる。他の地域では胡散臭そうにみられるか、無視するのが普通だが、藤樹先生の心を受け継いだこの学校ではこれが普通なのだろう。 

彼の像などに交じって、正面の壁にしっかりした楷書で右から「知良致」と書かれている書がかかっていた。私の心に響いた。「チ・リョウチ!」。よく考えると不思議だ。私はたとえ古典であれ、中国の言葉を見ると中国語で発音する癖がある。しかし、その時は日本語の発音で心にずっしりと響いたのだ。

滋賀県高島へ

その後、別の年の晩夏の雨の降る日、藤樹のふるさと、滋賀県高島市を訪れた。実は彼は27歳の頃、独り暮らしの近江小川の母親を案じて帰郷したいと藩に願い出たが、受け入れられずに脱藩し、故郷の母の下で暮らしたのだ。これは藩主に対する忠誠が絶対的であり、母親への情を優先するなどはもってのほかという当時、ありえない不忠だった。

しかし彼はその「常識」を疑った。自分の価値基準は四書五経にあるのではなく、もちろん世間にあるのでもない。学問をしてきた自分自身にある。その自分が「忠」という幕藩体制の倫理よりも一人ぼっちの母親を慕う「孝」を優先するのであれば、それが理=正しいことなのだ。世の人が自分を狂人といおうと構わない。その10年ほど後に、彼は陽明学に出会い、「心即理」という思想を知り、自分の正しさを確信したのだろう。

そこまでして帰ったふるさとだが、仕事はなく、刀を売って金を貸したりして生計を立て、私塾「藤樹書院」を運営して人として生きる道をふるさとの人々に教えた。

現在、藤樹書院は地元のボランティアの方々によって守られており、そこにも藤樹直筆の「致良知」という言葉が力強く書かれていた。私がこの言葉をみると、中国語発音ではなく「チ・リョウチ」という日本語になるのは、陽明学を中国思想というより日本に根付いた思想として受け止めているからなのだろう。

 

武士の心にすんなり溶け込んだ陽明学

それにしても16世紀の王陽明の思想が、海を越え、500年の時代をこえて四国や琵琶湖の片隅に生き続けているのが感動的だった。そればかりではない。彼の思想は19世紀に日本を変える原動力となった。1837年に幕府の腐敗に業を煮やして大坂で挙兵しかけて失敗した大塩平八郎。幕末に萩の松下村塾にて尊王攘夷と倒幕運動を実行する俊才を教育したり、黒船に乗せてもらうように交渉したりして失敗し、処刑された吉田松陰。江戸幕府を無血開城させ、新政府の中枢となったが征韓論で下野して西南戦争で亡くなった西郷隆盛。彼らもみな陽明学者だった。そして体制を変えようと命を懸けたが、結果的にはみな失敗した。少なくとも19世紀半ばの武士たちには、陽明学が受け入れられる素地があったのだ。

一方、中国でも台湾でも韓国でも、陽明学は朱子学に対抗するほどの支持を受けてはいない。わずかに「知行合一」という成語が知られている程度だ。なぜ海を越えた日本の地で彼の思想が受け入れられたのだろうか?

私はその理由が、がり勉の暗記を否定し、仕事を通して日常生活すべてから真理を学ばせるという陽明学の学び方、そして象牙の塔にこもらず、各地の反乱軍を平定してきた「文武両道」の王陽明その人にあると考える。

 

内村鑑三も陽明学者?

内村鑑三が「儒学の異端児」陽明学者の彼を「代表的日本人」の五人の一人として選んだのも今は理解できる。科挙に受かることが前提で、自分の生活とは関係の薄い事柄を必死に詰め込まなければならない中国や朝鮮とは異なり、日本では一部のエリートを除いて身の回りの暮らしから学ぶことを重んじ、また基準やメカニズムを権威ではなく自分自身に求めよ、という声は時代をこえて広がった。そしてそれを日本に根付かせたのが中江藤樹だからである。

さらに、内村の中でも中江藤樹の陽明学が彼を突き動かしたことが何度もあったにちがいない。例えば1890年に第一高等中学で明治天皇の御名のある教育勅語に対し、クリスチャンであるという宗教的理由から最敬礼をしなかった。非難ごうごうの中、彼は教職を辞することになった。また、日露戦争の際にも、宗教的理由から万朝報に「非戦論」を掲載して非国民扱いされ、同紙を去った。このように教育勅語に最敬礼をしたり、戦争に同調したりという周囲の「空気」に流されなかった彼を支えていたものが、陽明学の「心即理」であり「知行合一」だったのではなかろうか。

 

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