三重県で真っ先にイメージされる光景は、伊勢神宮かもしれない。しかし県内の寺院でピンとくるところがある人は、地元民でなければ歴史マニアではなかろうか。
夏の終わりに気になる浄土真宗寺院が二か所あったので訪れた。一つは木曽三川(木曽川、揖斐川、長良川)の中州、桑名市長島にある浄土真宗西本願寺派の願証寺である。知名度は低いが、織田信長が2万人以上もの一向宗(浄土真宗)門徒を殺戮した場所に建つ寺というとピンとくるかもしれない。一向宗ならではの城の楼閣を思わせる建造物の向こうには「長嶋一向一揆殉教の碑」がたてられている。「殉教」ということばをキリスト教以外で聞くことはほとんどない。真宗門徒にとって、これは宗教戦争だったのだ。
その夜、津市一身田の高田会館に泊まった。ここは真宗内で本願寺派(西本願寺)、大谷派(東本願寺)に次ぐ高田派の総本山、専修寺の宿坊である。やはり真宗ならではの城郭のような堀に囲まれた寺内町の中心に位置するこの寺は、外観は東本願寺、西本願寺と同じく門をくぐって向かって左に阿弥陀堂、右に宗祖親鸞聖人を祀る御影堂からなっており、その巨大さや、極楽浄土を再現した内部の豪華絢爛さには圧巻される。朝には真宗共通のお経「正信偈」をあげ、法話を聞くが、子どものころから聞きなれたメロディアスな東本願寺のものに比べ、フラットな唱え方な割にはパーカッションのような音が耳に残った。
実は高田派は真宗の中でも信長の門徒大殺戮の際、信長側についたため、今なお他派、特に西本願寺派との間には確執がある。ちなみに専修寺のホームページやパンフレットには、この事実は書かれていない。「権力者に立ち向かう民衆の宗派」というイメージの強い浄土真宗も、信長の大殺戮に対して一枚板ではなかったのだ。
一方近江を代表する寺院というと言わずと知れた伝教大師最澄の本拠地として開いた日本仏教の一大中心、比叡山延暦寺である。最澄とライバル的立場にあるとされる空海の建立した高野山金剛峰寺からは、後に日本史の教科書に載るほどの人物がそれほど輩出されなかった。それに対し延暦寺からは彼の弟子にして「入唐求法巡礼行記」を記し、最澄がもたらし得なかった金剛界・胎蔵界の「両部曼荼羅」を命がけで持ち帰り、日本天台宗を完成させた慈覚大師円仁をはじめとして、空海の甥とされ、唐からの帰朝後、比叡山のふもとに園城寺(三井寺)を再興させ、唐への往復の道中に世話になった山東半島の新羅人に対する感謝の念から寺の守護神として新羅善神堂を建立した智証大師円珍らが9世紀に登場した。
10世紀には密教を主とする天台宗の教えの中では傍流とされがちな浄土信仰を広めるために「往生要集」を記し、浄土信仰の基礎を築いた恵心僧都源信や、それを民衆にまで広げるために正に東奔西走した「市聖」空也を輩出した。
その流れは12世紀にここで修行し、「専修念仏(とにかく念仏)」を掲げて浄土宗を開いた法然や、その弟子で「悪人正機(ダメ人間から救われる)」を主張する浄土真宗を開いた親鸞に受け継がれる。傍流さえも排斥せずに、比叡山の中心となる東塔、西塔に次ぐ横川というエリアを浄土信仰の聖地として残した延暦寺には懐の深さが感じられる。
同じころ、ここで修行した栄西は宋にわたり、禅を修めて日本における臨済宗を開いた。さらにその孫弟子の道元は、13世紀にここで学び、宋からの帰朝後は「只管打坐(とにかく座禅)」を旗印として越前永平寺で座禅を追い求めた道元などが輩出された。
いわゆる「鎌倉新仏教」のラストランナーにして浄土信仰でも禅宗でもない、法華経こそ真の教えとして他宗派を過激なまでに排斥したと思われる法華宗の日蓮の信念も、若き日に高僧たちと真の仏法を求めて命がけの法論を重ねた結果揺るがぬものとなったに違いない。彼らの生涯は十数枚のパネルの中に絵と文字で紹介されており、そのようなパネルが三内各地で見られる。このように、最澄を絶対視する個人崇拝に陥らず、真理を求める百家争鳴の梁山泊であり続けたことが、比叡山の活力となったのだろう。
天霧立ち込める比叡山の雨の中を歩きながら、一木一草、雨の一滴にも「生きとし生けるもの」としての価値を見出す最澄の教えの多神教的、包括的なあり方は、「八百万の神々」を尊ぶこの国古来の在り方に通づることに気づいた。それが「みんな違ってみんないい」的な鎌倉仏教諸派の揺りかごとなった事実から、やはり寺院に関しては三重県より滋賀県に軍配が上がりそうだ。
お知らせ
9月6日から二次面接対策の無料体験受講およびガイダンスを行います。(英語・中国語・韓国語中心)
詳細はこちらまで。