巨人の故郷、常陸国 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

巨人の故郷、常陸(ひたち)(のくに)

 3月初旬、日暮里から常磐線に乗って水戸を目指した。牛久駅を過ぎた頃、東側を見ると、田園地帯の向こうにたたずむ牛久大仏の姿がはっきりと見えてきた。高さ120mで世界最高のブロンズ像であるこの阿弥陀仏がみえなくなってしばらくすると、水戸郊外に入った。

 内原駅を過ぎて、田園地帯が見えた。すると遙か向こうの丘の上に巨大な埴輪らしきものがうっすらと見える。高さ17mの埴輪型のビル、はに丸タワーである。牛久大仏の六分の一ほどの高さとはいえ、5階建てのビルそのものを埴輪にしてしまうという発想が面白い。ここの人たちは相当巨人がすきなのだろう、と思いながら水戸市内に入った。

訪れた茨城県立歴史館では、入館して最初に見る展示コーナーで目にしたものが奈良時代に編纂された「常陸国風土記」の記述である。それによるとここにはダイダラボウという巨人がおり、茨城県のシンボル、筑波山に腰掛けていたため、山は男体山と女体山の二つの峰に分かれたという。さらに水戸郊外の丘陵地帯に座って、手を伸ばして鹿島灘あたりの貝をとって食べ、貝殻を下に吐き出したので、貝塚ができたという。私はこの種の常識を超えた桁外れなスケールの大法螺吹きが大好きだ。何か楽しくなってくるのだ。

そのダイダラボウの高さ15mの像があるというので鹿島臨海鉄道に乗って常澄駅で降りた。そこからタクシーでも拾おうと思ったが、停まっていなかったので、直線距離で1km以上向こうに見える小高い丘に座る白亜の大男の像に向かってとぼとぼと歩くこと20分ほどで、ついに丘の上にたどり着いた。

下から見るダイダラボウは圧巻だ。なにせ東大寺大仏よりも大きい像が、不器用な笑みをたたえて迎えてくれるのだから、摩訶不思議な感じだ。像の中には全面ガラス張りの十畳ほどの部屋があり、群馬県のハート形土偶や埼玉県のみみずく土偶、青森県の亀ヶ岡遺跡出土の土偶が高さ2mほどの大きさで復元されている。スポットライトが当てられたそれらの土偶はウルトラマンのナントカ星人のようで不気味ですらある。

そして丘のふもとには貝塚もある。土偶に貝塚。ここは仏教流入以前の縄文文化や、それが大陸文化と融合した弥生文化、古墳時代の文化までがこの土地の基層文化であることがうかがわれる。ダイダラボウの最上階は展望台で、広々とした関東平野が体感できる。こんな巨人を自分たちのアイデンティティとして持つ人々だから、はに丸タワーや牛久大仏のような破格の巨人像を造ってしまうのだろう。

 物理的にではなく、精神的に桁外れなプロジェクトが水戸藩にはあった。それは水戸黄門、すなわち徳川光圀(みつくに)が編纂を始めた「大日本史」である。これは250年以上という途方もない年月と莫大な額の財政を注ぎ込んで書き上げた日本の国史である。明朝末期に大陸から亡命してきた遺臣、朱舜臣はこの地に食客として滞在し、政権の「正統」という概念を光圀に教えた。中国文明流入前の、ダイダラボウが活躍していたかもしれない縄文時代(?)から続くこの国のあり方を教えたのが明国人だったのも興味深い。

その影響もあり、皇国史観に基づき皇室の持つ正統性を南朝に求めるこの歴史書の巨人は「尊皇攘夷」を旗印に桜田門外の変を起こした水戸藩浪士たちだけでなく、長州藩吉田松陰や薩摩藩西郷隆盛ら、幕末の志士たちの行動原理に影響を与えたことでも知られている。 

言い換えれば「水戸学」という幕末の思想界における「巨人」が生まれたのも、この土地を闊歩していたダイダラボウを心のよりどころとする人々がいたからであろう。「大日本史」編纂というこの桁外れさは、水戸藩、いや常陸国のもつもう一つの巨人といえはしまいか。 

 

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