「ピカドン」と蝋人形 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

「ピカドン」と蝋人形

 世界に日本の漫画やアニメは知られているが、日本以外ではきわめて知名度の低い作品に「はだしのゲン」がある。戦争や原爆の悲惨さやむごたらしさを描いたこの反戦漫画は、日本中の小学校の図書館などにおいてあり、目を覆う子どもたちも少なくなかったはずだ。

小学校三年生の頃、町の体育館に「はだしのゲン」の映画を見に行った。出かける前に、母に「ピカドンの映画だけん、よう勉強してきなさいよ。」と言われた。私はそのとき初めて「ピカドン」という即物的な擬声語を耳にしたのだろう。「ピカドンってなに?」と聞くと「ピカッと光ってドン!と落ちたけんピカドンだわね。」という母の説明を聞いたが、なんのことか分からなかった。そしてその直後に体育館であの惨劇を見ることになったのだ。私は「原爆」という抽象的な言葉を覚える前に「ピカドン」という擬声語(オノマトペ)を覚えたのだ。

 小学校六年の修学旅行先は「ヒロシマ」だった。私はその時初めて「はだしのゲン」の舞台でピカドンがどんなに恐ろしいものかというものを知らされた。なによりもショックだったのは平和記念資料館にある原爆投下直後の被爆者の蝋人形だった。熱によって顔がとけ、手の皮膚が垂れ下がってお化けのように両手を前に出した親子がうつろな表情で歩こうとしているその蝋人形を、私は直視できなかった。「はだしのゲン」という二次元の漫画よりも、等身大の三次元の蝋人形を目の当たりにすると、あの日のヒロシマに連れて行かれたような錯覚を覚えさせる。それは見る者の胸をえぐり、核兵器のむごたらしさを即物的に伝えてくる。それ以外のものはほとんど記憶にないほど蝋人形の恐ろしさが強かったのだ。その後何度かここを訪れたが、蝋人形が見えたら下を向いて通り過ごした。

 2017年に資料館がリニューアルされ、蝋人形のトラウマはあるのだが、それが取り除かれたと聞いたので見に行った。初めに原爆投下前の廣島市が白黒パノラマ写真で壁全面に広がる。「1945年8月6日8時15分」と書かれたコーナーを過ぎると、原爆投下直後の灰燼に帰したヒロシマが広がり、その廃墟のパノラマの「壁画」を歩いて行く。すると太田川の三角州に発達した広島が半径数mの丸いテーブルの上に広がり、そこに原爆が落とされる映像が映る。見る側の我々は原爆を投下したエノラ・ゲイ号の視点でこの三角州を見ていて、絶対的に安全な場所にいる。高みの見物というのもイヤな感じだ。その後はパネルによる解説と少量の焼け焦げた服、熱でとけた瓶などの展示が続く。人影の途絶えた廃墟のパノラマと、三角州を上から見たヒロシマ。いずれも投下直後の恐ろしさが感じられない。

歴史系博物館というのは後世になにかのメッセージを伝えるためのものであり、以前あった蝋人形は「ピカドン」という落とされた側からの視点の生々しさが見る者に「あの日の」恐怖を追体験させた。しかしリニューアルされたのは「原爆」という落とす側の視点ではないか。これで後世に核兵器の恐ろしさや平和へのメッセージがどれだけ伝わるだろうか。

市内のタクシー運転手曰く、蝋人形がいやで原爆の恐ろしさに目を背ける人が多いため、撤去されたのではとのこと。またあの影響で中韓の戦争系、独立系博物館でも日本軍による残虐な行為を蝋人形で再現するようになったという声もある。しかし今なお目を閉じるとフラッシュバックしてしまうあの蝋人形こそが、世界中の人々に平和を訴えてきたのではなかろうか。あれが本当にお蔵入りでよかったのだろうか。とはいえ二度とは見たくないが。