日光東照宮と本当の「関東人」 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

日光東照宮と本当の「関東人」

 日光東照宮を訪れるたびに「関東」について考える。「東照」とは没後に「東照大権現」、すなわち「東国を照らす(守る)ために現れた神仏」という名をつけられた徳川家康を指す。

16世紀末、関東の覇者北条氏が豊臣秀吉に敗北した。その後に住み慣れた東海の地から関東平野の主としてやってきたのが三河の家康だが、彼はその時から新参者の「坂東武者」となるべく務めたのだろう。秀吉亡き後は「東軍」の将として「西軍」の豊臣家を破り、鎌倉幕府滅亡以来約三百年ぶりの東国政権、「江戸幕府」を開いた。天下無双の江戸城を守る総鎮守は神田明神であるが、その祭神が関東独立をめざして倒れた平将門であるのも板東武者として生きることの所信表明かもしれない。祖父、家康を敬愛した三代将軍家光は、その志を継いで日光の地から関東を守るため、豪華絢爛な社屋を建てたのだろう。

中華文化圏では王者は南に面して北に座り、背後には山、向かいには水がある土地に王宮や御所を建てた。しかしその例に倣った日光はその規模が並はずれている。背後に日光の霊山がそびえ、真南に進むと広大な関東平野、その南には江戸が位置し、さらにその南は江戸湾および太平洋である。まさに東照大権現がこの関東を日本の地から切り離してまでも、冥界から守り続けることを意図したのである。

 ところで江戸幕府の実態は東国政権といえるのか。家康の故地、三河は西日本の最東端であり、江戸幕府の支配者たる旗本たちも多くが三河出身であった。満州族が北京を首都として清となってから数百年を経て、漢族化したように、幕府も徐々に「東国化」したのだ。

 しかしその東国化した徳川政権を倒したのは、薩摩、長州、土佐、肥前の西日本政権である。彼らは天皇の名の下、幕府を「逆臣」扱いした。ちょうど平将門や足利尊氏など、坂東出身の武人たちが京都の歴代天皇から「逆賊」と呼ばれたように。逆に言えば、関東とは京都に対する日本唯一の反逆、言い換えれば対抗しうる存在だったのだ。

その一方、近代になって京都から遷都して首都となった「東京」は、地理的には関東ではあるが、東京や横浜は関東から抜け出して「西日本化」していった。政府の中枢は薩長土肥および公家で占め、商業も伊勢商人や近江商人、そして財閥も三井(伊勢)、三菱(高知)、住友(愛媛)、安田(富山)と、「西日本軍」で固めたではないか。

今や東京の言葉が「標準語」となり、北関東の言葉を「なまっている」と思いがちだが、東京の言葉は関東諸方言に西日本各地の方言をまぜて人工的に作り上げたクレオール語だったことを忘れている。北関東の言葉こそ本来の関東の言葉ではなかったのか。最近の北関東出身のお笑い芸人のなかには、北関東の方言を使い、東京に対する劣等感と「ダサい」地元に対する愛を自虐的に語る人も少なくない。想像するに、関東人の京都に対する1000年にわたる屈折した思いは、まさにこの芸人たちの立場と近くなかろうか。

また北関東各地では夏になると暴走族に遭遇することがあるが、彼らこそ真のステレオタイプな関東人ではなかろうか。筆と紙を持ち、書を読む京の都人の前で、(くわ)(すき)で田畑を耕し、刀で戦った坂東人。また公家様は牛車に乗り、坂東武者は馬に乗った。これは黒塗りの高級車に乗った霞が関や丸ノ内の人々が北関東の暴走族を見るようなまなざしに近かったに違いない。そう思って陽明門を見てみると、「デコトラ」に見えてきて可笑しい。

極論すると、東京は関東というより、関東にできた西日本人のコロニーなのだ。伝統的な意味での関東人は北関東に多く住むのである。そして西日本コロニーの東京に今でも対峙し続けているのが五千体を超す色とりどりの彫刻群が改造二輪車(フルカスタムバイク)やデコトラのように板東のアクの強さと豪放(ごうほう)磊落(らいらく)さを体現する東照宮であり、暴走族なのではなかろうか。