型破りな庭、水戸偕楽園
水戸のシンボル、偕楽園は実に破格である。最も破格なところは、二重の意味で「陰陽」にこだわっているところだ。まず、ここは庭園の美しさのみを愛でるのではない。庭の梅を愛でる前に、まずは十五代将軍徳川慶喜を輩出した藩校弘道館に行く。ここは儒学を初めとして、蘭学や國學などまで学んだ「総合大学」としての弘道館は、学問を修める場所である。
しかし学問ばかりでは弛緩のバランスが取れない。休憩することによってより深く、長く学べるものだ。そこで訪れるべき所が他でもない、偕楽園なのだ。なんせ「偕楽園」というぐらいだ。他のほとんどの大名庭園は、藩士以外は入れないのが原則だったが、ここは領民まで決まった日には入園できたという、日本における「公園」のはしりだ。
三月初旬、弘道館からタクシーで偕楽園に向かった。庭マニアの端くれとして、私はみなが行く駐車場や偕楽園臨時駅の方面(南側)からは入らず、住宅地の間にある正門から入った。こここそ造園当時の入口で、ここから入らないと当園の醍醐味は分からないからだ。
庭に入ると実に見事な竹林が広がる。その幻想的なまでの薄緑色の空間は、「陰」を表わす。それをくぐり抜けたところに門があり、そこからは一転して明るい「陽」の空間となる。陰から陽への変化を楽しむためにも、正門から入りたかったのだ。
弛と緩、陰と陽という対立概念をみな歩いて行くことで、身体や意識の中にそれらを複合的に取り入れる、この哲学的な造園法がこの庭の面白さなのだ。日本庭園の多くに陰陽という哲学は影響するが、ここほどはっきりとそれを感じさせるところは少ない。
また、「陽」のシンボルたる好文亭という建物に入っていった。木や竹をたくみにあしらったこの数寄屋造りの三階建て建築は、一階部分の襖絵が四季折々の美しさを表わしており、三階から眺めると眼下に千波湖が見える。日本庭園に欠かせない池が偕楽園にはない。その代わり園外の千波湖をこの好文亭から見えるように、いわば借景として利用しているのである。借景とは普通、金閣の背後の衣笠山など、園外の山々を風景に取り入れるものだが、ここでは高いところから低い湖を園内の風景と見立ててしまうという型破りさである。
「好文」とは、晋の武帝が好んで学問に打ち込んだときには梅の花が咲き、怠ると咲かなかったという故事から、梅そのものを指す。三千本とも言われる当園の梅は、園内の東(陽の区域)に集中している。厳冬を堪え忍び、真っ先に春の訪れを告げて咲くこの花は、唐のみならず、同時代の日本でも愛された。後に日本人は桜を愛でるようになっても、忍耐の末に香りを漂わす梅は愛され続けた。そしてその桁外れの規模を誇るのもこの偕楽園だった。
ところで物理的にではなく、精神的に桁外れなプロジェクトが水戸藩にはあった。それは水戸黄門、すなわち徳川光圀が編纂を始めた「大日本史」である。これは250年以上という途方もない年月と莫大な額の財政を注ぎ込んで編纂した日本の国史である。明朝末期に大陸から亡命してきた遺臣、朱舜臣はこの地に食客として滞在し、政権の「正統」という概念を光圀に教えた。中国文明流入前、この地の伝説の巨人「ダイダラボウ」が活躍していたかもしれない縄文時代(?)から続くこの国のあり方を教えたのが明国人だったのも興味深い。
その影響もあり、皇国史観に基づき皇室の持つ正統性を南朝に求めるこの歴史書の巨人は「尊皇攘夷」を旗印に桜田門外の変を起こした水戸藩浪士たちだけでなく、長州藩吉田松陰や薩摩藩西郷隆盛ら、幕末の志士たちの行動原理に影響を与えたことでも知られている。
言い換えれば「水戸学」という幕末の思想界における「巨人」が生まれたのも、この土地を闊歩していたダイダラボウを心のよりどころとする人々がいたからであろう。「大日本史」編纂というこの桁外れさは、水戸藩、いや常陸国のもつもう一つの巨人といえはしまいか。