下町と山の手 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

 

下町と山の手-大地の小ジワの東と西

東京の下町に住みはじめて十数年。この間、ずっと下町にこだわりつつ山の手を「見上げて」きた。山の手と下町の境はどこかとよく思うのだが、実は山の手、下町というのは明確な地域ではなく、政治的、経済的、文化的に主導権を握っている機関が集中している場所であり、なおかつ交通の要衝であることだが、それは時代によって変わりうる。
 江戸時代、江戸城を中心として各藩の藩邸が集中した千代田区、港区、文京区あたりは、それより東側にあり、主に町人が居住した中央区、台東区、墨田区、江東区などよりも地理的に高い場所に位置したことから、(支配層=武士の住む高地=山の手)と(被支配層=町人の住む低地=下町)という概念ができた。ただし、このころ山の手が掌握していたのは幕府による政権と武士道を中心とする上流文化であり、経済と大衆文化は下町が支配していた。元禄文化や化政文化の代表である浮世絵、俳句、歌舞伎などはもちろん、欧米人が特に喜ぶ相撲や芸者、そして祭りなど、現在の「伝統的日本文化」とみなされるものの多くが下町から生まれた。さらに交通面でいうなら五街道の中心は下町の日本橋だった。
 これらの現象を換言するならば、山の手と下町は社会階層の違いによって共生していたのだ。士農工商という変化しがたい制度が厳然としてありながらも、下町の江戸っ子は参勤交代で来たばかりの垢抜けぬ「芋侍」を嘲笑するとともに、都会っ子としての江戸っ子の「粋」を誇ったともいえよう。九鬼周造によれば「粋」とは①媚態、すなわちフェロモン、②意気地、すなわちやせ我慢、そして③諦めの要素をもつ美学であるという。このうち②は武士道の精神にも通じ、③は佛教的諦念に起因することから考えると、純粋に「粋」なのは①のフェロモンにあるのではなかろうか。
 時は明治となり、東京に事実上の遷都がなされると、山の手と下町のバランスが山の手に偏りだした。山の手は政権と伝統文化のみならず、丸ノ内を経済の中心として開発し、さらに江戸時代は下町に属していた銀座を上流階級の行く繁華街にし、下町の中の下町だった日本橋に日銀と百貨店群を置いた。これにより日本橋、銀座といった下町は山の手の人の行く地域に「ランクアップ」すると同時に上野、浅草を中心とする庶民の下町と、山の手化した富裕層の下町(もはや下町とは言えぬ?)に分断された。いうなれば、山の手は政治(薩長藩閥政治)と上流文化(東京帝大、神保町古書街、鹿鳴館他)、そして経済(丸ノ内、銀座、日本橋)、さらには交通(新橋駅→東京駅)などを一手に掌握し、下町の「首都」ともいえる浅草に残るのは大衆文化のみとなった。

ちなみに東海道本線が開通し、新橋駅がその出入り口となると、この路線を使って薩長土肥といった藩閥が永田町、霞が関といった山の手に居をかまえ、近江、伊勢の大商人や三井、は日本橋や銀座といった新たな山の手に店舗を構えた。一方上野駅が東北本線の出入口となると、この路線を使って東北から農家の二男坊、三男坊、そして女子がやってきて、下町に転がり込んだ。戊辰戦争は終わっても、帝都を舞台とした新たな「階級上の戊辰戦争」のあからさまな権力構造がそれぞれの居住区域に見て取れる。

その「ベルリンの壁」ならぬ「東京の壁」を最も感じさせてくれるのは山手線の田端―上野駅間である。この地域は崖にそって線路が走り、東側は低地に、西側は台地になっている。地表の高低差はいわば「大地のシワ」である。山脈が眉間の深いシワなら、坂道は目元の小ジワである。しかし徳川幕府はその小ジワに「下町」「山の手」と呼び名をつけて定着させた。その所得格差、賃金格差、地価格差、学歴格差などが今なお続いていることを見ると、幕府だけでなく現代の我々にも責任の一端があるような気がしてならない。などというようなことを考えつつ、今日も自転車で山の手の専門学校に向かってペダルを踏む私である。