水と踊りの町 郡上八幡
城マニアの私が、中学時代から気になっていた城がいくつかある。その一つが岐阜県の郡上八幡城である。気になる理由は、戦前に建てられた木造天守があることだ。戦前に木造天守が建てられたのは他に例がない。私にとっては幻の名城だった。
40代になってようやくこの城を訪れる機会を得た。市内北部、白鳥の旅館を出るときには大雨で、山城特有のつづら折りを登りつめたころには、ちょうど雨が止んだ。天守の開城とともに内部に入った。対岸の山々は霧で覆われている。ふもとから見るときっとこの城山も霧の中だろう。雲海の底には城下町が細長く伸び、真ん中を長良川の支流、吉田川が濁流となって流れているのが見える。
1933年に建てられた木造天守は、歩くたびに床がみしみし響く。このきしみは、1979年まで2年間通っていた木造小学校を思い出した。そういえばあの校舎も1930年代に建てられたはずだ。内部の資料はそれほど見るものはなかったが、窓から見える雲海は絶景だった。
つづら折りを下って町を歩く。実に水に恵まれた潤い豊かな町である。路地の奥にこんこんと湧く清水、宗祇水は、室町時代の連歌師宗祇が滞在していたことに由来することからも、ここが古くから文人墨客の心を洗う場であったことが分かる。その水は町内各地に流れ込む。重伝建に指定されている古い町並みの道端には水路があり、おばあさんたちが野菜などを洗っているのも見られる。ぜいたくな環境だ。
そして町内を流れた水は先ほど天守から見えた吉田川に流れこむ。この町では小学時代に岩場や橋の欄干から川に飛び込む「通過儀礼」が今なお伝わるという。あいにく訪れた日は濁流で、さすがにそんなことをする子供は見られなかったが…。
水の町、郡上八幡は踊りの町でもある。町内の郡上八幡博覧館では、郡上踊りの教室が観光客向けに行われているので参加して手ほどきを受けた。
「郡上の八幡出ていくときは雨も降らずに袖しぼる」で始まるこの唄だが、やはり歌詞に「雨」と、「袖しぼる(=涙?)」というように水がキーワードになるのはいかにもこの町に似つかわしい。7月から8月にかけて31日間も夜通し踊り続けるという驚異の踊りではあるが、地元民はもちろん、覚えやすく、踊りやすいため観光客でも見よう見まねで踊りの輪に加わることができるという。
この起源は、遠藤氏の藩政期の17世紀初とも、郡上一揆で百姓の代表が獄門にあった18世紀中旬ともいわれる。その後この踊りは時を超えて受け継がれる。太平洋戦争中には時局柄他の地域では盆踊りが憚られ、自粛または禁止されたころにあっても、「戦没者追悼」の名目で踊り続けた。昭和20年8月15日の終戦の日にも、玉音放送が終わって国民がみな喪失感や虚無感、絶望感に暮れる中でも。この町の人は毎年のように踊り続けた。
この町では大雨でも狂ったように踊りまくる人を「踊り助平」と呼ぶ。「雨も降らずに袖しぼる」のは、藩の搾取と圧政に対して立ち上がった怒りの涙なのでもあり、戦争で命を失った人々に対する悲しみの涙でもあり、そして平和にみなで踊りあかせる喜びの涙でもあるのだろう。そしてそれを支えてきたのが他でもない、代々の「助平」たちだったのだ。