大坂城と大阪人 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

大坂城と大阪人

 大学時代大阪に住んでいたこともあり、何度も訪れた大阪城。ここはもともと浄土真宗の蓮如が戦国時代に築いた石山本願寺という本拠地で、一世紀にわたって真宗の寺内町となった。今でも蓮如が衣をかけたという松の木が、根本だけだが残されている。そしてこの蓮如こそ「大坂」の名付け親でもある。蓮如亡き後も大坂の地は門徒が守り続けた庶民の町だ。

後にここに本拠地を移そうと目をつけたのが織田信長は、石山本願寺を十年以上にわたり攻撃するが落城に至らず、結局交渉により門徒をこの地から追い出した。信長はあまりにも石山合戦が長引くので代替地として白羽の矢を立てたのが近江の安土城だといわれる。信長が本能寺の変にて自刃した後、後を継いだ秀吉がこの地に空前絶後の城郭をあっという間に作り上げた。しかし秀吉が亡くなると関ヶ原の戦いを経て豊臣氏は没落の一途をたどる。天下を掌握したはずの豊臣氏が敗戦により大坂城主という地位にまで貶められたのだ。さらに二度にわたる大坂の陣により大坂城は必死の抵抗も虚しく灰燼に帰した。

 それにしても行くたびに驚かされるのが、大坂城の規模の巨大さだ。特に高い石垣が延々と続く景観や、三十六畳分の面積の蛸石には肝をつぶす。ただ、これらはみな、大坂の陣の後に二代将軍徳川秀忠が秀吉時代の城郭の上に盛り土をし、更地にしてから建てなおしたもので、今の大坂城には秀吉時代の面影は一切ないのだ。

時は下って1931年、市民の寄付金により日本初の本格的な復興天守が大坂城に完成した。鉄筋コンクリート造りでエレベーターもある、外観だけ天守で建築的にはビルそのものというこの天守風建築のモデルは、秀吉時代のものなのだ。大阪人はなぜ秀吉時代のものを選んだのか。それは大阪人の中に流れる反中央、反権力的な志向を体現したのが、他でもない豊臣秀吉だったからではなかろうか。尾張の百姓であった秀吉が才覚と交渉力、そして人間力によって頭角を現し、ついに天下を取ったという実力主義に、商売人気質あふれる庶民の大阪人は拍手喝采するのだ。それは大坂の街がたどってきた庶民性、反権力性に起因する。

つまり戦国時代には真宗門徒(=権力の言うとおりにならぬ庶民)が信長(=新興の為政者)に追い出された。桃山時代には秀吉(=庶民の夢を体現した為政者)が天下一の城郭をかまえたが、その子は大坂の陣にて徳川(征夷大将軍という権威中の権威)に滅ぼされた。江戸時代には将軍と武士、すなわち権力者の街、江戸に対して、西廻り航路の中心都市「天下の台所」としての商業都市、すなわち日本一の庶民の街としての地位を確立した。

飛鳥時代以来、文化というものは天皇、僧侶、貴族、将軍、大名など権力者が担ってきたが、日本史上初めて文化の担い手となった庶民こそ元禄時代の大坂の町人たちである。井原西鶴や近松門左衛門、文楽などはこうした時代背景のもとで発達したのだ。

大阪の街の歩んできたこのような道を理解すれば、秀吉時代の天守を再現し、まるで天下一の豪壮な石垣群をみて秀吉の豪勢さと大坂の陣の悲劇を同時に感じ、その後の徳川氏によって築き守られた歴史を思わず忘れてしまうからだ。

大坂城を歩くたびに思うこと。それは、ここは庶民を代表する大阪人が自らの反権力的志向を天守という形で表現する「自己主張の場」だということだ。

 

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