姫路城にみられる女性美と男性美
平成の大修復を終えて一年たった姫路城を訪れた。姫路駅から一歩出ると、北側に白亜の天守が見える。街全体の構造が、玄関口の駅から真っすぐ城が見えるように、また城に街を見守ってもらうように造られているのだ。瀬戸内海に面した温暖な気候なためか、師走とはいっても陽ざしは明るく、近づくほどに青空に映えた天守が目に突き刺さるほどだ。
城には男性的な城と女性的な城とがあるが、全体を漆喰で塗り固めた白鷺城は男を近づけない小悪魔といったところか。迷宮のような構造で天守に近い道を行けばかえって遠のき、数々の櫓や城壁には四角や三角、丸い形をした狭間があり、そこから鉄砲や弓矢が飛んでくるからだ。さらに連立式天守の周りには石落としがあり、天守の内部に入っても武者隠しから武士が現れ、最後の一撃を加えられる。しかし一歩歩けばそれまでの表情を変え、様々な魅力を見せるこの小悪魔的な城に魅了される人が世界中から訪れる。
天守に入ると、外観の女性らしさとは異なり、無骨そのものである。私が城をはじめとする日本建築を見るときにチェックするものの一つが柱と梁であるが、ここはとてつもない巨木を使っている。特に柱は上から下まで一本の大木を二本も使っており、他に例を見ない。白鷺かと思えば骨格は牛のようである。天守の内部は他の城郭と異なり展示物はほとんどないかわりに、このような城そのものの構造が分かるようになっている。最上階には築城以前からこの姫山の守ってきた神を祭った刑部神社がある。聖地を要塞化して氏神を祭るのは、首里城など沖縄の城(グスク)には見られるが、本土では極めてまれだ。
この城は様々な歴史の証人でもある。戦国時代にこの城に生まれた黒田官兵衛は、織田信長と中国の毛利氏に挟まれた際、合理的な見方をする織田氏に将来性を見出してその麾下にあった秀吉の軍師となった。自分の生まれた姫路城を、交通の便が良いことを理由に秀吉に捧げた官兵衛は、信長の毛利攻めの最前線として備中高松城(岡山市)を水攻めにした際、現地の農民に土嚢一票と米一俵と交換すると触れを出し、瞬く間に城の周りに堤防を築き、足守川の水を引いて水没させた。そこに五月雨が降り続き、毛利方の城主清水宗治の切腹を条件にその他の者の命は助けるという条件で降伏を迫った。現在全く建造物の残っていない備中高松城だが、周囲は一面の平地で、水をひかれた時の恐怖を実感する。
清水宗治がこの条件をのんだとき、本能寺の変で信長が倒れたことを知らせられ、茫然自失した秀吉に、官兵衛は「今こそ天下を取りましょう」とその気にさせた。そして清水宗治の切腹を見届けた直後に、体制を整えるために軍勢を結集させたのもこの姫路城である。その後毛利方の旗印を借りて怒涛の如く京を目指し、山崎の合戦で明智を倒したが、その際明智は毛利の旗を見て敗北を悟ったという。そのような「日本の諸葛孔明」の異名をとる軍師を生んだのもこの城だった。
そして信長の妹のお市の方を外祖母に、徳川家康を祖父に生まれ、秀吉の息子秀頼に嫁いだのが千姫である。大坂の陣で夫秀頼を亡くし、失意のまま再婚して嫁いだ先もこの姫路城だった。ここの西の丸は彼女のために普請されたところである。怜悧な軍師や豪放な戦国武将の持つ男性美と、戦国の世を健気に生きた姫の女性美を合わせたのがこの城なのだ。
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