「世界遺産ブランド」を脱した石見銀山 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

 

 

「世界遺産ブランド」を脱した石見銀山

 観光地では「世界遺産」認定はブランド中のブランドである。例えば知床や屋久島、白川郷などはこのブランドにより大いに観光客を集めた。一方で観光客の激増により、自然破壊や現地住民の生活に悪影響を与える、いわゆる「観光公害」も指摘される。

 石見の地は16世紀に出雲の尼子氏、周防の大内氏、安芸の毛利氏が三つ巴になって攻略を続け、その都度勢力地図を塗り替えた、いわば戦国時代の「アルザス・ロレーヌ」のような場所だ。現在島根県に属するが、言語的には多数派の出雲弁ではなく、少数派の石見の言葉を使う。それは中国山地を超えた広島弁をマイルドにしたように聞こえる。いわばドイツ系のアルザス語をフランス領内で話しているアルザス人のような立場が石見人なのかもしれない。そしてこの地を争奪の場にしたものこそ、桃山時代前後には全世界の銀の1/3を算出し、ヨーロッパ人の航路開拓にも影響を与えたという石見銀山だった。

銀山中心地の龍源寺間歩(まぶ)を訪れた人数は世界遺産登録前年の2006年に約40万人だったが、登録後の2008年には81万人以上になったという。ただその後は減少を続け、登録後10年目の2016年には31万人に下がった。登録翌年がバブルの絶頂期だったようだ。

 2018年9月に、13年ぶりに石見銀山の中心地、大森の町を訪れた。平日ということもあり、晴れてはいたが観光客はあまりおらず、その割に大森の街並みは「街並み保全」という点に関して優れている。江戸時代の商家にして重要文化財の熊谷(くまがい)家住宅や、代官所地役人の旧河島家、銀山で働き亡くなった人々を五百羅漢として祀る羅漢寺などの江戸時代の建築だけでなく、幕末の建築が中高年向けのライフスタイルを提唱するファッションブランド「群言堂」の本社として使われるなど、小ぢんまりした町を身の丈に合った持続的発展を守っている。なによりも石州瓦の赤瓦屋根の家屋が建ち並ぶのが美しかった。

 翌日は秋雨の降る中、駐車場から往時の坑道、龍源寺間歩に向かった。一車線のこの道では地元の自動車以外走行できない。二キロ余りの道だが、大雨の中なのでベロタクシーで向かった。往復で一人四千円あまりというのは高いが、運転手はガイドもしてくれる。

間歩の中は数百年前の人間が掘った間歩がわずか百数十メートル続くだけである。他の世界遺産のような写真写りの良いところなどどこもない。何も知らなければ「たったこれだけ?」と思うことだろう。山道を二キロ以上も歩かされ、間歩の中は佐渡金銀山のように当時の労働者のロボットや採掘の音を入れたりして臨場感を出すという工夫もない。

実はこれは地元の苦肉の策だ。「ここの価値を理解したいならガイドを雇うか資料館にお越しください。歩けないならベロタクシーをご利用ください。」という、山陰の寒村が観光地としてなんとか食べていくための方策なのだ。ボランティアガイドではお金が落ちない。交通制限なしでは限界集落になってしまう。そのせめぎあいの中で住民がとったのは、「どうせ来るならじっくりと滞在して、ガイドの話を聞いて下さい。」というスタンスだった。

最盛期に比べてわずか十年足らずで観光客は半分以下になった。しかし「外資」に媚びず、「世界遺産ブランド」に驕らず、「インバウンド」にも踊らされず、持続可能で身の丈にあった暮らしを守っていくその心意気は、全国の観光地の在り方に一石を投じないだろうか。

 

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