ブランドPR能力に脱帽?道後の湯 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

ブランドPR能力に脱帽?道後の湯

 暮れの道後温泉。朝6時。外はまだ真っ暗だ。「ドン、ドン、ドン」振鷺閣の太鼓の響きに誘われて道後温泉本館に向かう。周囲の旅館や商店街に統一感はなく、コンクリートのビルが殺風景に並ぶ。地域全体で温泉街らしい町づくりに取り組まなかったのだろう。ただ豪壮な明治時代の和風建築で知られる道後温泉本館は大城郭の御殿を思わせ、立派すぎるほど立派だ。しかし大勢の観光客でひきを切らないのは「日本最古」に加えて「坊っちゃん」というブランド力のおかげであろう。入館者はまず一階の「神の湯」につかる。

道後の湯は「日本三古湯」の中でも「最古」とされるが、その根拠は開湯伝説が神話にさかのぼるからである。出雲から巨体の大国主命と「一寸法師」の少彦名(スクナヒコナ)がこの地を訪れた際、旅の疲れか少彦名は病に伏せたので、大国主命が瀬戸内海の向こうの速水の湯(別府温泉)からお湯を引いてきて、少彦名を浸したらたちまち回復したという。神代にさかのぼるため「日本最古」を誇るのだが、それなら別府温泉が最古なのではないか?また出雲から来た神々というが、松江の玉造温泉も少彦名が発見したというので、そちらのほうが古くはないか?というようなツッコミどころ満載である。

さらにこの温泉は聖徳太子も高句麗僧の恵慈とともに湯浴みしたことに由来して「聖徳太子ブランド」にあやかり「飛鳥乃湯」という新しい公衆浴場を開いた。また「源氏物語」にもその名を残す「ブランド温泉」であることも千年以上に渡ってPRしてきた。

ふと見ると「神の湯」には「坊っちゃん泳ぐべからず」の張り紙がされる。また、三階には漱石と子規が休んだ「坊っちゃんの間」がある。だが疑問がある。松山を最もこき下ろした張本人こそ坊っちゃんではないか。以下はその引用である。

「船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。」「こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。」「気の利かぬ田舎ものだ。猫の額ほどな町内の癖に、中学校のありかも知らぬ奴があるものか。」「東京はよい所でございましょうと云ったから当り前だと答えてやった。」「田舎者はしみったれだから五円もやれば驚ろいて眼を廻すに極っている。」「そんなえらい人が月給四十円で遥々こんな田舎へくるもんか。」そして総括して曰く「一時間あるくと見物する町もないような狭い都に住んで、外に何にも芸がないから(中略)。憐れな奴等だ。」ここまで言われたら黙っていないと思いきや、道後の人たちは「ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉だけは立派なものだ」という一文と「大文豪お墨付き」という漱石ブランドをもって百年以上PRし続けている。

 調べてみると漱石が来た頃にはこの温泉街は「道後湯之町」という自治体であり、松山市ではなかった。温泉街の道後から城下町の松山までは数キロ離れており、歴史上同じ町という意識はなかったはずだ。1923年の合併以降もこの町の人々のアイデンティティは城下町松山市民である前に神代の時代から続く道後温泉だったのだろう。だとすると藩政期にこの温泉街を支配してきた隣町を馬鹿にされても腹立たしくなく、むしろ漱石の知名度にあやかり「坊っちゃん団子」、「坊っちゃん列車」などのネーミングを利用したほうが良いということになる。客商売で繁栄したこの町の知恵だったのかもしれない。

 

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