「負け組の町」大宰府-百済人亡命者と菅原道真 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

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2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

 

「負け組の町」大宰府-百済人亡命者と菅原道真

「大宰府」と古代においては都を離れた要地に置かれた朝廷の出先機関であり、現在でいえば防衛省と外務省、そして九州全体を統括する役割をもつようになったため「遠の朝廷」、すなわち事実上の第二首都とされた。郷土史家とともに市内を見渡す岩屋山展望台に登ると、眼下に見える正方形の空き地が大宰府政庁跡だ。その北には、平野の真ん中を横切る一直線の細長い森がみえるが、それが大宰府を守るための土塁と堀、水城(みずき)である。さらに進むと曲がりくねった土塁が見えてきて、さらに山の中を走ると目立たぬところに石垣が180mにわたって連なってきた。これが大野城であるが、1200年も崩れぬ石垣を築いた当時の百済人の技術には脱帽である。

石塁の城郭がなかった当時、この巨大な城郭が作られるようになったのは、7世紀後半、日本が初めて本格的な対外戦争をした白村江の戦いに起因する。事の発端はそれまで百済が唐・新羅からの侵攻を受けたため、倭に援軍を求めたことにある。まさに日本にとって本当の意味での「第一次世界大戦」の様相を呈したこの戦いの結果は百済・倭の敗北だったため、百済の亡命者が大挙して玄界灘を渡ってきた。先進技術を身につけていた彼らが唐や新羅からの侵攻に備えて築いたのが大宰府であり、それを守るための城壁兼堀の水城、そして大宰府陥落時の逃げ場としての大野城をはじめとする城郭だったのだ。

ただ、現在「太宰府」といえばやはり太宰府天満宮である。この門前町を歩くと、香ばしいにおいを漂わせる「梅ヶ枝餅」である。10世紀初めに藤原氏の讒言のため、醍醐天皇は道真を京都から大宰府に左遷したが、そのとき「東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」という歌を残して大宰府に赴任した後、二度と都の土を踏むことはなかった。そんな中で失意の道真を励ますために地元の老婆が梅の枝にさして食べさせた焼きあん餅が「梅が枝餅」という。さらに桃山建築の本殿の正面には梅の紋を使用しているが、これは主人である道真を慕って京都の屋敷から梅の木が大宰府まで飛んできたという伝説に由来する。天満宮と梅の絆は深いのだ。

ただし道真が神格化されたのは「祟り」を恐れてのことだ。彼の死後、宮中の清涼殿に雷が落ち、道真追放の張本人たちが相次いで亡くなり、その衝撃が原因か、醍醐天皇まで崩御した。人々はそれを道真の怨霊とみなし、彼を天神と崇めて建てたのが天満宮といわれる。日本では古来、恨みを抱いて亡くなった者は、敵であっても弔うという「怨親平等」という発想がある。この発想は、唐や新羅などではあり得ない考えだった。

時代が変わり、道真は鎮魂より「学問の神」として庶民の絶大的な支持を得るようになと、天満宮では全国の受験者による絵馬が何百枚とかかるようになった。中でも中国語や韓国語の絵馬が目立つ。「怨親平等」は分かち合えずとも、科挙の伝統以来の「受験文化」が日本以上にあるからか、道真公の学力にあやかろうとする人に国境はないようだ。

それとは別に思うのは、百済人亡命者が造営し、道真が左遷され、その魂を鎮めるこの地は「合格」どころか「負け組」の町ではないか、ということだ。逆に言うと、負け組を受け入る癒しの地ではないだろうか、などということを考えながら雨の太宰府を離れた。

 

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