ブラタカタの原点となった「長崎ぶらぶら節」 | ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

ブラタカタ・・・通訳案内士試験に出題された場所の旅道中

2007年以降、300人以上の通訳案内士を養成してきた通訳案内士試験道場の高田直志です。案内士試験に出題された場所を津々浦々歩いたときの旅日記です。案内士試験受験生は勉強に疲れた時の読み物として、合格者はガイディングのネタとしてお読みください。

ブラタカタの原点となった「長崎ぶらぶら節」

長崎の夜というと、神戸六甲山、函館山と並ぶ100万ドルの夜景を誇る稲佐山からの夜景が有名だ。深く入り組んだ港の周りに赤や緑のネオンがきらめくのこの街を空から見てきたのはこの山だが、もっと深くじっくりと長崎の夜を見てきたのは丸山だろう。

丸山は江戸の吉原、京都の島原と並ぶ三大花街だった。維新の回天期に志士たちが日本の明日を語った丸山、そしてなかにし礼の小説で1999年に直木賞をとった小説「長崎ぶらぶら節」の舞台となった丸山を追体験するために散財した。

大正期に丸山で地元の唄がうたわれないことを疑問に思い、「長崎によか歌はなかとじゃろか。そんげんことはなかと思う。おいは長崎ば愛しとるけん、長崎の歌探しばやってみようと思うとっとたい」と、「長崎学」を創立すべく芸妓愛八とともに唄探しの旅に出た郷土史学者、古賀の心の動きを描いた「ぶらぶら節」。その舞台は丸山の花月というお茶屋から始まり、県内各地を駆け回ることになる。

江戸時代には千数百人を数えた芸妓も20名を切り、思案橋裏手の丸山の街並みも電線と駐車場だらけで殺風景この上ない。その中で華やかなりし日の残り香を求めてたどり着いたのが青柳というお茶屋だ。肝心の芸は祇園に及ばずとも、長崎文化を支えているという誇りは感じられたし、馬鹿馬鹿しいながらも楽しい時を過ごせたのがよかった。

計算したら通訳案内士試験道場を設立して以来、金銭的には自分の年収の2割を試験問題に出たところに関する書籍代と踏査旅行「ブラタカタ」に費やされた。私は吝嗇なほうだったのだが、そのようにまでしてブラタカタに金を費やし、読書に時間を費やしたのはなんだろうか。「長崎ぶらぶら節」の主人公、古賀の発言にその答えがあった。

「おいはここにおるとは酒を飲むためではなか。日本文化の鑑賞じゃ。学者というもんは、机にばっかかじりついていたっちゃ、ろくな研究はできんたい。芸者遊びのこの無駄、この下らなさ、このバカバカしさ、この楽しさと虚しさをしらんで、どうして花街のことば語れようぞ。おいは学者たい。しかしただの学者ではなか。芸者と踊り、幇間とたわむれ、金ば湯水んごと遣うて学問ばする。ただし、学問よりもなによりも女が好きじゃ、大好きじゃ」「学問というもんは、他人の研究ば利用することではなか。自分が自分の手と足で勉強することたいということば実証してみせたいばっかいに、中央の学者たちの机上の空論をくつがえしてやりたいばっかいに、おいは長崎の隅から隅まで舐めるようにして調べまわしたとたい。身銭ばきって遊んだとたい。そいで身上ばつぶしたとたい」「これが学問たい。自分の目で見て、自分の手で確かめる。そこに学ぶことの喜びがあっとたい。」「たった一つの歌の背景には、こんげんすさまじか歴史があったとたい」…古賀の言葉は私を「ブラタカタ」に突き動かす。

試験対策講座と参考書執筆にかこつけて、身銭を切って方々歩いている道楽者の私と、酷似している。「ブラタカタ」をする理由をここまで正当化してくれた人物を、私はまだ知らない。旅が終わると次の旅の本を読み、ブラタカタに出ては小文を書くことの繰り返しは今後しばらく続きそうだ。

 

PR 5月末から通訳案内士試験道場3学期が始まります随時ご見学承っております 。

詳細はこちらまで。