ここ数年、徐々にではあるが、映画を見ても感動や興奮することが少なくなってきた。

「最近面白い映画が少なくなってきたなあ」と感じたのが数年前。

その思いの矛先は、当然のごとく作品の方に向けていたのだが、どうやらこれは鑑賞者である私の方に問題があるのかもしれないと思うようになってきた。

私はこれを書いている段階で50歳。

50歳で自分のことを「オジサン」と自称してはいけない、「おじいさん」という自覚を持つべきだ、という話を同年代の友人と先日話していて、至極妥当であるという結論に至った。

「オジサン」は30歳くらいから40代までであろう。

ちなみに、女性はまた違うかもしれない。わからないことについてコメントは控える。

ともかく、そう考えると「オジサン」という期間は、人生100年時代と呼ばれる現代ではとても短い期間に過ぎないのだ。

50歳で「おじいさん」になるとすると、人生で一番長い期間を「おじいさん」として過ごさねばならぬ。

というわけで、私はもう、おじいさんである。

おじいさんといえば、目や耳は悪くなり、足腰はあちこち痛み出す。すぐに疲れる。血圧が上がる。脂肪がつきだす。病気も危惧せねばなるまい。

ろくなことがないのだが、抗っても仕方ない。それは受け入れよう。

しかし、どうしても受け入れがたいものがある。

感受性の減退である。

映画の鑑賞者として、感動できない、興奮できないというのにはいささか参っている。

映画の話にやっと戻ってきたが、老化による感受性の衰えが、映画をつまらなくさせているような気がしてならないのだ。

前述の「おじいさんの定義」は多くの人に当てはめてもいいと思っているが、「老化による感受性の衰え」は私だけなのだろうか。

 

「偶然と想像」。

三つの短編集であるが、それぞれのお話はそれぞれ独立している。

通底しているのは、会話劇であること、そしてタイトルにある「偶然」という言葉である。

 

第1話 魔法(よりもっと不確か)

友人が今好きな人が自分の元カレであり、その元カレもその友人に惹かれつつあることを知った女性が、その元カレのところに向かうが・・・

というお話。

おじいさんの衰えた感受性が早速爆発して申し訳ないのだが、男女の好いた惚れたの恋愛話なんぞ、全く興味がわかない。

恋愛をテーマにするなら昨年公開された「花束みたいな恋をした」くらいの工夫が必要だろう。傑作だった。

 

ただこの第1話、恋愛映画としてそこまで掘り下げる気は濱口竜介監督にはさほどなかったのではないかな。

むしろ、会話劇を用いて軽いコントを作ったに過ぎないのかもしれない。

事実、満員の劇場で時折爆笑が起こる。

ここでまた、私の「おじいさん」が発動する。

「あっ、ここが笑うところなのか」とどうしても客観的になってしまう。

確かに今のやり取りは笑ってもいいところだったかもしれない、というのはわかるのだが、笑えない私。

三つの短編通じてこれは共通した感想だ。

近年のお笑いブームに、一部を除いて、全く乗れないのと同じ。

お話の序盤、主人公の女性二人がタクシーに乗って長々と話をするシーンがあるのだが、タクシードライバーを生業にしている私はむしろバックの風景を見ながら、「ああ、ここはあそこを走っているな」と、話とは全然関係ないところに関心がいっていた。

あと、古川琴音という俳優さんは正直中学生くらいだと思っていたので、大人の恋愛話の主人公としてはなんか違和感あるなあとも観ながら思っていた。(あとで調べたら25歳だった。驚いた。)

第1話観終わった時点で、ああまた乗れない映画見に来ちゃったなという気分に私はなっていた。

 

第2話 扉は開けたままで

セフレ相手の男性に頼まれて、大学教授であり芥川賞受賞作家でもある壮年男性を誘惑して貶めてやろうと、大学の彼の研究室に向かう女性だったが・・・

というお話。

美人局というやつであろうが、私の中のおじいさんがまたもや発動する。

美人局を実行する主人公の女性の動機が、要はちょっと大きすぎる性欲によるものらしいのだが、ちょっと動機が弱くないか?

そもそも芥川賞作家も大学教授もセックスフレンドも現実の私にはまったく縁のない話であり、一ミリも共感できない会話劇がこれまた延々と続く。

第1話同様、随所に爆笑が起こり、コントであることを再認識させられるとともに、またしても、私はクスリとも笑えない。

会話自体に耳を立てていると、これも第1話から思っていたことだが、すべての俳優がやたらと抑揚のない棒読みである。

へたくそだなあと最初は思っていたが、どうやらこれはわざとやっているのではないか、という考えに至った。

昨年、この濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」を見に行ったのだけれど、睡眠不足からか開始早々爆睡してしまい、気づいたころにはもう話が全く分からなくなっていて、そのまま終わってしまったという経験をした。

 

 

つまりどんな話か全く覚えていない、というより見ていないに等しいくらい眠ってしまったのだけれど、「ドライブ・マイ・カー」も俳優がやたら棒読みだったのを少し思い出したのだ。

彼の作風なのかもしれないなとは思った。

第2話は、美人局未遂から5年後が描かれて終わるのだが、正直言って全く面白いとは思わなかった。

 

第3話 もう一度

 

40代くらいと思われる二人の女性が高校生の時以来に再会し、会話を進めていくのだが、何となく様子がおかしな方向に・・・

というお話。

お待たせしました。

散々くさしてきましたがこれは面白かったです。

この3話目を見せるために前の1話2話があったのかもしれないといっても過言ではない。

相変わらず劇場内では笑いが起きていて、感受性が枯れていてなおかつ反射神経のない私は笑わなかったが、これは笑ってもいいと思った。(そうとうひねくれている)

三つのお話の中では一番起伏があって脚本もしっかりしていた、というのが面白かったという感想につながる一因だと思う。

ラストも、なかなかグッとくる終わり方だった。

何を言ってもネタバレになってしまうので、話がどう転んでいくかは1ミリも話せないのだけれど、感じた点で話せることを。

この文章の冒頭に散々加齢の悲しさを述べたが、このお話の40代の主婦が漏らすセリフにこんなのがあった。正確ではないが内容は大体こんな感じ。これを書き留めておきたいがために、老いの悲しさを滔々と述べたのである。

「何かに夢中になる情熱もない。かといって不幸といったら他人から怒られてしまうくらいの暮らしはしている。私は時間に殺されていく。」

めちゃくちゃ共感した。

私もそうだし、多くのオジサン、オバサン、おじいさん、おばあさんが思うところなのではないかと思う。

「一日一日を一生懸命生きる」というのは美しいスローガンである。だが。

ある一定以上の年齢の人間にできることはそれしかないと思うのだが、しかしこれは結構きついことであるのを日々実感している。

さらに、過去にとらわれすぎて、今を生きていくのがつらいという人の姿もこの3話目には描かれている。

これに関しては私は鈍感で、赤江珠緒さんの「3秒前は過去」を本能的に実践できているが、このような悩みを持つ方が少なからずおられるだろうことは「想像」に難くない。

 

第3話で映画が終わり、渋谷の劇場を出た。

どうせ続かないだろうけど、これから、観た映画の感想くらいはおもしろくなくてもブログを使って書き留めておこうと思い、帰りの山手線に乗った。

私は時間に殺されている。

くだらなくても、記録に残すことで、時間に殺されていく自分と対峙できるんじゃんないかという淡い期待を持って。