気分がもやもやするので、久しぶりにブログを書く。

もやもやするといっても、何か特別なことがあったわけではない。

コロナの影響で目下仕事は休職中だが、休業手当が出ているし、暮らすことそのものに問題はないのだけれど、時間がありすぎて色々なことを考えてしまう。

もう50歳。

何を考えても悩んでもどうしようもない。

過去は戻らず、未来は、本心を言うと「もういらない」。

やるべきことといえば、子供もいないし、あとは老いた母親の面倒を見るくらいなんだろうなあ。

長い休職期間中、時間は沢山あるので、映画をやたら見た。

本もすごく読んだ。

ときには一人でスタジオに入ってドラムを叩いたり、ギターを弾いたり、歌を歌ってみたりもした。

どれもそれなりに楽しいのだけれど、どれもこれも本当にやりたいことなのかというと、自分の中からはかばかしい答えが見つからない。

本当にやりたいこと?

そんなものはない。

そんなものはないのだとわかっているのに、時折、「やりたいことのない自分」に嫌気がさす。

若いころ、「本当にやりたいこと」がわかっている(ように少なくともおれには見えた)友人知人が何人かいた。

結果なんて関係ない、好きだからやっているんだという趣味なり仕事なりを持っている人が心底うらやましいと思った。

彼らのことを真似てみようとじたばた試みた時期もあったが、彼らのようにはなれなかった。

のちに「本当にやりたいことはおれにはない」と、それは極めて観念的ではあったかもしれないが、はっきりと自覚した。

それはかなり若いころだった。

それ以後、「今楽しければいい」という身構えで生きてきて、今でもそれは間違っちゃいないと、頭ではわかっているのに、どこかでいまだに「本当にやりたいこと」を希求している自分に気づいて、大声で叫びだしたくなる。

こういう悩みは大勢の人が持っているよ。

人の人生なんてそんなもんだよ。

と、いくら自分に言い聞かせても、どこからともなく「そうじゃないんじゃないか?」という悪魔のささやきが聞こえてくる。

こいつがかなり厄介だ。

もう一度「本当にやりたいこと探し」に着手しようか。

しかしそれを見つけることはやはり無理だと思う。

気力体力もいるしね。

そもそも、「本当にやりたいこと」は探すものじゃなく、降ってくるものなのだろう。

「本当にやりたいことがある」というのは、それそのものが「能力」なのだ。

そして残念ながらおれにはその「能力」がなかったというだけの話だ。

ずいぶん昔にわかってたはずじゃないか、何をいまさら。

何を、いまさら。

 

愚痴ったなあ。

男性にも更年期障害というのがあるらしいので、その類いかもしれぬ。

 

楽しいことを書こう。

最近の一番の楽しみは、夢を見ることである。

将来の夢、とかの夢ではなく、睡眠時の「夢」である。

覚醒するとたいがいは忘れてしまうので、記録をとれないことや、見ようと思ってみられるものでもないのが残念だけど、実に多様な夢を特にここ数年見るようになった。

過去の自分の経験、つまりドキュメンタリーな夢もあるし、平素は思いもつかないような、SF映画や小説になりそうな壮大なお話の夢もある。

1人称、つまり自分自身が主人公な時もあれば、映画監督のように第三者の視点で見る時もある。

色々な夢を見ていて、その時はいい気分だったり、ときに悪夢だったりもするが、毎度スリリングなのは間違いなく、就寝前は「いい夢が見られますように」とお祈りする習慣がついてしまったほどだ。

前述したように覚醒すると内容は忘れてしまうのだけれど、覚えている夢もいくつかある。

それは、完全に忘れてしまっていた自分自身の過去が完全によみがえる夢を見た時だ。

覚醒して、「ああ、おれには昔、こんなことがあった」と気づかされることが本当に増えた。

生来おれは忘れっぽいたちで、昔の出来事とか人の名前とかの類は、普段の意識下にあまり上ってこないのだが、記憶というのは脳みそのどこかにしまってあるものなのだなというのが、最近の実感である。

例えば、恋愛。

○○ちゃんに告白して玉砕したなあ、とか、○○ちゃんのこと片想いしてたけどあのタイミングだったらイケたっぽい、とかね。

くだらないけど。

「あの時○○ちゃんは、おれのことが好きだったんじゃないか」なんていうことを想起させてくれる夢もちょいちょいある。

自分は女性にもてる男ではないと思っていたけれど、そうでもなかったんじゃね?と、思わせてくれたりする夢。

全く付き合ってもいないのに、なぜか○○ちゃんと真夜中に手をつないで歩いたとか、そういえば○○ちゃんからやたらと飲みに誘われたなあとか、その類いだけど。

ほんとくだらないね。お恥ずかしい。

そのかわり生々しい性的な夢はほとんど見ない。

あと、実際に恋愛が成就したひとは、ワンナイトラブ的な人や離婚した昔の妻を含めて、全く夢には登場してこない。

なんでだろうな。

 

夢で思い出したので書く。

いささかSFチックで幼稚な考えだといわれるのを覚悟でいうと、人の人生っていうのはそれそのものが「誰かがみてる夢」なんじゃないかって気がするんだ。

つまり、その誰かが目覚めたときに、おれは死ぬんだな、って。

割と幼いころに思いついたことで、久しく忘れていたが、この歳になってあらためて、あながち間違ってないような気がする。

筒井康隆とか星新一とかを小さいころから読んでるから、その影響かもしれないし、自分の人生に対する不満足を誰か自分以外のせいにしたいという卑怯な逃げ口上かもしれないね。

 

くだらないことをたくさん書いたけど、ちょっとすっきりした。

今晩はいい夢が見れますように。