2016年に観た映画の中で印象深かった10作品を紹介させていただきます。

劇場で見たものに加えて、某ツタヤでの新作あるいは準新作で初見だった作品も含まれています。

それぞれの作品にごく僅かに短評をつけますが、私は映画マニアというほどの知識も教養もないので、観る前にもっとちゃんと知りたいという人は、映画のタイトルの後に「宇多丸」とか「町山」とかつけて検索してください。プロの評論が聴けたり読めたりします。

順位はつけません。

映画の要素、例えば「アクションが良かった」「脚本がいい」「映像がキレイ」「役者がいい」などと事細かに項目立てて評価することはできなくもないですが、それらを数値化し、全て足し算して最高得点のものが1位になるかというと、決してそうはならないからです。

 

「オデッセイ」

 

(生きるために必要なこと)

とにかく諦めない。生きてる限り最善を尽くす。できない理由を探さずにできることをやる。状況が厳しいときほどギャグで乗り切る。音楽のちから。絶対時間と相対時間の相違は時に残酷な結果をもたらす。それでも、諦めない。前だけを見て生きるしかない。SFというジャンルに限れば今年ナンバーワン。逆に言うと、SF作品全体としては少し物足りない一年でもあった気がします。

 

「クリーピー 偽りの隣人」

 

(狂気はすぐそこにある)

お住まいの方には申し訳ないけれど、関東南部をぐるっと回る環状線にして大動脈、国道16号線沿いには狂気が潜みやすい匂いを昔から感じていました。私自身が千葉県柏市出身。野田・春日部・川越・入間・瑞穂・羽村・八王子、そしてこの映画の舞台とされる日野。匂いが近いんです、どの町も。モチーフは北九州連続監禁殺人事件。凄い映画だけど不快な映画。2度と見たくない。けど忘れられない。香川照之ヤバすぎ。サイコパスは一定の割合で確実に存在します。私も時折、自分を疑うことがあります。

 

「火の山のマリア」

(境遇と出自による限界)

主人公マリアは必死に生きようとする。尊厳を守ろう、自分らしく生きようと奮闘する。しかし、自分の出自に勝つには高すぎる壁がある。自分の国の病院なのに言葉が通じないという一点においてだけでも、少なくとも日本人の私には想像を絶する残酷な世界。無理なものは無理なんだと言われて、抗おうにもやはり限界はあるのだ。受け入れることだけが人生だとしたら、虚無に打ち勝つ術はどのくらいあるのだろうか。辛い。

 

「この世界の片隅に」

 

(すずさんは、私の祖母よりちょっと後輩)

私の祖母は最初の夫を戦争で亡くしました。その後、亡夫の弟の嫁になりました。私の母は4人きょうだいの一番上ですが、母だけが父親が違うそうです。大人になってから知らされました。つまり、私にとっての血縁上の本当の祖父はあったことも見たこともない、祖母にとっては最初の夫です。戦争中にはよくあったことだそうです。その他、今では考えられない「よくあったこと」が、いくつものテーマを伴って重層的に描かれている映画です。原爆ですら、脇役です。血がどうであろうと、私にとってのおじいちゃんは、海に連れて行ってくれた、私の作文をほめてくれた、こっそりサイダーを買ってくれた、ドライブに連れて行ってくれた、弟のほうのおじいちゃんだけです。祖母はまだ、存命です。すずさんも今も生きていて、広島カープの応援をしていることでしょう。私はヤクルトスワローズしか愛せませんが。

 

「スポットライト 世紀のスクープ」

 

(この世はともかく、デタラメである)

社会学者宮台真司さんがよく発するセリフを引用しましたが、この映画の背景も「世の中のデタラメさ」にまみれています。幼児的に育つがゆえに、聖職に「しか」つけない人間。聖職者は結婚できないという「心地よい逃げ場」を与えられたひとの犠牲になるのは、聖職者に信仰を託す子供たち。負のスパイラル。何千年も続く宗教だけに、同じくらいの「隠ぺいの歴史」もあることでしょう。この映画においては、それらの重い罪を根気強く暴いていく記者たちのバディ感が確かに痛快ですが、私は「デタラメな世の中でいかに生きていくか」を考えさせられる方にどうしてもシフトしてしまいます。程度の差こそあれ、自分もその「デタラメな世界」の成員であることも含めて。

 

「葛城事件」

 

(家族の形にこだわりすぎるゆえの悲劇)

父。親から引き継いだにすぎない小さな商売と家だけが持ち物。家父長制への行き過ぎるこだわり。映画の最初から最後まで徹頭徹尾ダメ人間。笑えないダメ人間(『笑えない』が大きなポイントです)。

母。夫に逆らえないためどんどん追い込まれる。ようやく家出などして抗ってみるが時すでに遅し。狂う。

長男。父親に大きな影響を受けているが、反面教師的にみていたのか責任感が強い男に育つ。しかしその責任感が強すぎた。何でもかんでも抱え込んでしまい、自殺。

次男。唯一父親への反発を幼少時からあらわにしていて、「希望の存在」になってもいいはずなのに、性格はこいつのほうが親父譲り。徹底的に利己的。結果は「殺人犯で死刑囚」。

死刑囚の次男と獄中結婚する女。利他的にふるまおうとするも、スクリーンに映る彼女は「聖母としてふるまいたい自分が好きなだけ」。痛い。

「クリーピー」同様、否、それ以上に、2度と見たくない不快すぎる傑作。こういう映画見ちゃうから再婚する気にならないのかな。いや人のせいにするのはやめよう。

 

「コップカー」

 

(半グレの小学生の男の子が遭遇した、厳しすぎる大人の世界)

10作品の中で唯一、難しいことを考えないで楽しめた作品。

がんばれ小学生男子!と拳を握りながら見たい一作。

無邪気な子供たちが、ケヴィンベーコン扮する悪徳警官によって「あれ、世の中って結構やばいのかも」と徐々に認識していくさまを見るにつけ「がんばれ何とか乗り切れ」と全力で応援したくなること請け合いです。逆に「ケヴィン!早く悪ガキどもをやっつけろ!」という気持ちで見ていたという友人もいます。同じ作品でも、人によって感想が違うから映画は面白いですね。

こういう映画をホントはもっと見たいんです。

 

「アイアムアヒーロー」

 

(ダメダメなおっさんが「受け入れる男」になっていくさま)

漫画家になって世に認められたい、っていう人は星の数ほどはいて捨てるほどいるんでしょうね。大成しそうにないと徐々に分かってくる大泉洋扮する主人公鈴木英雄が、ゾンビの増殖によって自分のやるべきこと、できることを実行できたりできなかったりしながら、「受け入れる男」に移っていくさまをみていると、45歳になった今でもどこかでエキセントリックな自意識を捨てきれない自分としては、せつない気持ちでいっぱいになります。冒頭では名前を聞かれると、「英雄(えいゆう)と書いて、ヒデオ」と言っていたのが、終りの方になると、「ヒデオ、ただの、ヒデオ」と変わっていくところもまた、「受け入れる男」に変貌していくさまを象徴していてグッときます。ゾンビ映画という、今や使い古されたと思われるジャンルにも、まだまだ新しい道があることを感じさせてくれました。これ、大傑作だと思います。長澤まさみさんが男前で美しくてかっこいいです。

 

「デッドプール」

 

(ギャグと下ネタは、人類を救う)

劇場での初見の時は、「アメコミもこういうのやらないと飽きられるっていうのわかってきてるのかな」位にしか思わなかったんですが、「この世界の片隅に」を見てから、世界観は真逆ともいえるこの映画をなぜか連想してしまい、DVDで見返して、結果大傑作にシフトしました。異論はあるかもしれませんが、笑う事、ギャグを発信することだけが、人を支えるんだと改めて思います。すずさん(=のんa.k.a能年玲奈)、この「デッドプール」のウエイド(=ライアン・レイノルズ)、「オデッセイ」のワトニー(=マット・デイモン)は、2016年の私にとっての3大ヒーローヒロインです。もちろんそんな難しく考えなくても、楽しいアクション映画です。かなりお下品なセリフが連発されるので気を付けてください。

 

「シン・ゴジラ」

 

(大人の怪獣映画)

3.11以降のことや、日米安保のことなど、政治・社会・国際情勢について考えを巡らせるのに適した作品であることは間違いないです。ネット上掘ればその類の論議はあちこちにあります。私なりの意見もなくはないですが、ここでは言及を避けます。カイジュウが好きなんです。何のかんの言ってゴジラが大好きなんです。格差社会と言われて久しいですが、その象徴ともいうべき都心の巨大ビル群をバッキバキとなぎ倒していくゴジラに、カタルシスを感じざるを得ないのです。テロリストが跋扈し、大きな自然災害が続く世の中で、不謹慎と思われてもこれが本音なんです。自衛隊だけでなく、はたらく自動車や電車たちもゴジラに立ち向かいます。お子さん向きではないと思います。2度目の劇場鑑賞の帰り際、「仮面ライダーのほうがよかった」と小さな男の子がお父さんに言っているのを聞きました。政治劇の部分が大半を占めます。石原さとみさんが、難しい役をよく演じきったと思います。

 

以上10作品いかがだったでしょうか。

気になる作品があったら、劇場なりレンタルDVDなりでチェックしてみてください。

次点候補をいくつか書き出してみたのですが、きりがないのですべて泣く泣く消去しました。

そのくらいいい映画が多かった年でした。

特に邦画のレベルが格段に上がった気がします。

2017年もいい映画にたくさん出会いたいです。