ラジオを語る~Radio! Too Tough To Die!!
映画について偉そうに点数なんかつけてる が、映画をよく見るようになったのはホントにここ数年のことで、「年間100本は劇場で見る」なんて言うマニアの人とは対極の「暇な時に見る」程度の素朴な映画好きのたわごとだと思って勘弁してほしい。

なんで見た映画をいちいち備忘録代わりにメモってるかというと、映画観賞者としての価値観や、作品の良しあしを判断する基準がどのへんなのかを自分なりに模索するためである。

若いころはこんなことする必要はなかった。

例えば音楽に夢中になってた時は、「このバンド最高」とか「このレコードはクズ」とかの判断を感覚でぱっとできてたんだが、だんだん理屈(たいていの場合屁理屈)ってやつが邪魔をするようになってきてその辺の反射神経が鈍ってるのを自覚せざるを得ないし、そして何より、記憶力が悪くなった。

要は、おっさんなんだね。


言い訳めいたことはこの辺でやめといて、映画「ヒミズ」。

今回は前もって古谷実の原作マンガを買って読んでから劇場に行った。

古谷実といえばおれには「稲中卓球部」のイメージがやっぱり大きかったし、多くの人にとっても恐らくそうなのではないか。

しかしこの「ヒミズ」は、「稲中」で炸裂していたギャグは極力封印されている代わりに、うってかわってシリアスで哲学的なストーリーになっている。

「普通に生きて死ぬ」ことを自分の人生の目標に掲げていて、「金持ちになる」「マンガ家になる」などといった大それた夢などを声高らかに叫ぶ人たちを憎悪するという中学生の主人公が、自分自身が一番望まない「普通でない」状況に巻き込まれていくというのが本筋のお話。

「普通でない」環境におかれたうえで、「普通でない」事件が起こり、ストーリーはもちろんそういう「わかりやすい」出来事によって進んでいくのだけれど、物語の本質は主人公住田の「死生観」「幸不幸観」「正義不正義観」といった、激しすぎる心象風景の表出にある。

よくサブカル方面の人が口にする「中二病」(住田はちなみに中3)といわれる思春期の一過性の苦しみでは片付けられない、否、片付けてはいけない人間の存在そのものに対する問いかけがこのマンガにはある。

詳細はネタばれになるので割愛するが(ぜひ読んでみてほしい)、おれはこの主人公の住田に激しく共感してしまい、感動し、そして不覚にも涙してしまった。

マンガで泣いてしまうなんていつ以来だろう。

覚えてない。


そして、このマンガのファンであったという園子温監督が「ヒミズ」をどう映像化したかだが、ストーリーは基本的に原作に忠実だ。

設定上の相違点は、原作では同級生でスリの常習犯の夜野が震災の被災者で家も自分の会社も失い住田の家のそばでテント暮らしをしているおっさんになっていること、住田を慕うヒロインの茶沢さんの家庭環境が描かれていること、原作で出てきた赤田やきいちやおまわりさんが出てこない代わりに夜野と同じくテント暮らしをしているカップルやホームレスのおじさんがでてくること、住田と茶沢さんが××××しない(したかな?ともとれる場面もある)ことなど。

一番大きいのは、昨年の東日本大震災を大きく物語に取り入れている点。

前述した、原作マンガで提示されている「死生観」「幸不幸観」「正義不正義観」といった哲学的命題に、あの震災によって厭が応でも対峙させられてしまったという人は多かろう。

ただ単にタイムリーだから、という理由で園監督が震災を作品にフィーチュアしたとは思えない。

映画の中では、「ボランティアだのなんだのくだらねえ!」だの「頼むから死んでくれ!」だの「放射能かかったらどうすんのよ!」だのの穏やかでないせりふが連発されている。

これは、震災後の「がんばろう日本」「ボランティア」「被災地支援」という一聴して耳触りのよいスローガン的なキーワードに対するある種の違和感の表れではないかと思う。

スローガンそのものはよいのだ。

だけれども、スローガンが耳触りがよい、いい変えれば大雑把過ぎるために、却ってひとりひとりの個人が本当にやらなければならないこと・本当に考えなければならないことが埋没してしまっているのではないかという感覚を、震災後1年経とうという今の時期になってもおれ自身感じざるを得ないし、おそらく園監督も同じような思いがあるのではないかという気がした。

ボランティアも結構、募金することは素晴らしい、全くその通りなのだが、被災地以外の多くの「普通の人」は、震災前と変わらず金も時間もない、毎日生活することで手いっぱい、気持ちはあっても何もできないというのが実情だと思う。

ここで、住田の当初の人生目標であった「普通に生きる」ということがクローズアップされる。

人生特別いいことがない代わりに激しく悪いことも起こらない。

他人を助けたりはしないけれど、同様に他人に助けを求めない。

その住田の考えはある種理想ではあるけれど、現実にはどうしたって大小関わらずみんないろんなことに巻き込まれていく。

事実、住田はおもに環境によってだんだんと「普通に」生きられなくなっていき、ある決定的な事件を契機に完全に「普通」でいられなくなる。

「普通」でなくなりつつある住田を、「リアル被災者」である夜野がこれまた「普通でない」方法によって助けるのだが、そのことを知った住田は夜野に対して感謝するどころか激怒して殴り倒したうえで、絶交を宣言する。

そして、夜野は、一見不合理な扱いをされたにもかかわらずその後も住田の身を案じ続ける。

このくだりを、震災における「被災者」「ボランティア・募金者」「その他大勢の普通の人」の関係性に置き換えると、おのずと、本当に個人がやるべきこと・考えるべきことが見えてくると思う。

少なくとも、この映画を見て、おれ自身、この世の中でのすべき立ちふるまいみたいなものが、うっすらと見えた気がする。

それが何かはここでは述べない。

長くなるから、というのもあるが、なによりそれこそ人それぞれだと思うから。

ひとりひとりが自分の持っている条件で考えることだと思うから。

そんなわけで、映画版「ヒミズ」に東日本大震災をフィーチュアしたのは、悪くない選択肢だと思う。

園監督にしてみれば、必然だったのかもしれない。


角度を変えて、園子温映画としてどうかという点に触れる。

原作も映画も確かにシリアスな話ではあるし、「愛のむきだし」「冷たい熱帯魚」なども、カルト宗教・愛犬家連続殺人事件など実際に起きた事件をもとに作られていて、そのメッセージ性の強さは疑いないところなのだが、実はエンタテインメント映画として純粋に優れているところが園監督が評価されている所以だとおれは思う。

この「ヒミズ」では、「冷たい熱帯魚」で全開だったセックス・バイオレンス描写はかなり抑えられているが、一見ブッ飛んでるがリアリティのある生き生きしたキャラクター設定は健在だ。

住田役の染谷将太、茶沢さん役の二階堂ふみの若い二人の演技は素晴らしかったし(なんか賞をもらったらしいね)、渡辺哲・でんでん・吹越満・神楽坂恵・黒沢あすかなど今や園子温ファミリーといってよい常連組ががっちりわきを固めていて、安心してみることができた。

吹越、神楽坂両氏は「冷たい熱帯魚」と同じく、夫婦(?)役で出てきたので、「ゾンビか?」と思ってそれだけでちょっとブルった。

でんでんが、悪人であるんだけれど、主人公に作品のテーマの核心と思われることを諭す役どころを任されているのもこれまた「冷たい熱帯魚」と同じだ。

おれは原作を読んでから見たので、話にぐいぐい引き込まれるという感覚は「愛のむきだし」「冷たい熱帯魚」に比べて少なかったのは確か。

それでも、キャスト・演出のクオリティの高さは健在だったので非常に満足。

最後に、映画版「ヒミズ」が原作と一番異なっていると思われるラストシーンについて。

いいですか、超ネタばれなので、未見の人のためにこの下は白字で隠しておく。

住田が生きててくれて、良かった泣いたぞ!

映画「ヒミズ」ぜひみてくれ。

http://himizu.gaga.ne.jp/


映画見たその足で、園監督作品の未見DVDを、「ぼくらの」新宿ツ○ヤでいっぱい借りてきたので、映画備忘録はしばらく園子温一色になります。

時間的に全部見られるか心配だが・・・・。

長文読んでいただき、ありがとうございました。