前回の「DIGにクレームのメールを送ってみた」の記事 で、説明しきれなかったことを少し補足しようと思う。

TBSの外山恵理アナウンサーは「よき社交」ができていない、よって、DIGは降板すべきだというのがおれの意見の論旨であった。

大事なところなので前回に続き、社交についての宮台氏の文章を再掲する。


欧米には社交術の伝統がある。自分をAとし、他者(たち)をBとする。Aの社交術というとき、AがBの期待を満たすように行動できるかどうかという点には、じつは力点がない。日本人は共同体的なので、このことを全く理解しない。
Aの社交術とは、AがBの期待を満たしうる存在であることをBに示すこと、あるいはそのことによってAにBを受け入れる用意(キャパシティ)があることをBに示すことである。どうみられるかという「体験」ではなく、ゲームに参加する意思を示す「行為」なのだ。
(中略)
だから、相手に喜んでもらえなかったという「体験」に一喜一憂したり脅えたりするのは社交的ではない。ゲームへの参加資格や参加意思を効果的に表明することに成功することこそが目標であり、そのあと相手が自分を「受け入れる」かどうかは単なる結果の話だ。

「この世からきれいに消えたい。 ~美しき少年の理由なき自殺~」 藤井誠二・宮台真司共著 より


水曜日の藤木TDCに対してのぶしつけな態度は、水曜DIGを聴いていれば、比較的わかりやすいと思う。

「アンタとは話したくない」「アンタの話は聴きたくない」という外山アナの意識ははっきりと明確だ。

番組のコンセプトが「ニュースを掘り下げて、探求する」ということで、毎日それぞれテーマがあって、ゲストも登場するので、何とかプログラムの体裁を保てているが、外山アナの藤木TDCに対する「社交の否定」をベースにしながら聴くと、不愉快極まりない内容だ。

一方の、藤木氏のほうはというと、何とかDIGという「ゲーム」に参加しようという意志を表明しようと、相方の外山アナに必死に語りかけている。

残念ながら外山アナがこの調子なので番組が壊れてしまっているのだが、相手に「受け入れて」もらえるかどうかは、単なる「結果」に過ぎない(宮台真司の文章の引用を参照してほしい)ので、藤木氏からすれば、これに一喜一憂する必要はない。

番組は壊れているが、藤木氏の「社交」はこの意味で達成されているのだ。

その一方で、木曜日の、荻上チキとのコンビではどうか。

相性もいいし、面白いじゃないか、と思う方が大勢だろうと思う。

外山アナも積極的に話しかけているし、いい番組になっていると思われる方も多いだろう。

しかし、「よき社交」というレベルにおいて、これは「単なる結果」にすぎない(こちらも宮台氏の文章を読んでほしい)。

木曜DIGが一聴したところ何とか成り立っているように聞えるのは、ひとつは、荻上氏のコミュニケーションの「テク」によるものが大きい。

この辺りからは推測の域を出ないが、「こういうひとは、こうアプローチすれば、喜んで話に乗ってくるだろう」という、「類型」を荻上氏がもっており、それにのっとって番組を円滑にすすめているのだと思う。

これ自体は全く非難するべきところはない。

高いコミュニケーションスキルを持つことは、おれにとっても、成熟社会を生きる我々すべての人間にとっても永遠のテーマであるからだ。

「よき社交」のレベルで藤木氏と同様、荻上氏も「ゲームへの参加意思の表明」という点で目標は達成されているうえに、彼のコミュニケーション「テク」が、たまたまよいほうに転がっているので番組が円滑に進んでいる、「様に聴こえる」にすぎない。

藤木氏とは、「社交」する気がなく、荻上氏とは「社交」できているように聴こえる最たる理由とは何か。

翻ってその最たる理由は、やはり外山アナの方にある。

あくまで推測であることを前提に述べると、おそらく彼女は「極めて利己的」な人間で、なおかつそれに無自覚なのだろう。

コミュの相手が自分より知性で上回っている、もしくは世間的に何らかの分野で認知されている、はたまた自分を心地よく楽しませてくれると判断したいずれかの場合のみ、彼女が「社交する」動機づけになるのだ。

逆にいえば、コミュ相手がそれらを持ちえないと判断した場合は、「社交」する必要性を彼女は失う。

いわずもがな、前者は荻上チキで、後者は藤木TDCということになる。

これはDIGに限らない。

永六輔とのコンビがうまくいってるのも、爆笑問題(日曜サンデーのアシスタントをたまにやっている)ともコミュがとれているのも、逆に安住アナと全く社交する気がない(日曜天国の「さばいてにちてん」のコーナー)のも彼女のこのような極めて利己的な性格を論拠の軸にすればすべて納得がいく。

小島慶子キラキラで、小島慶子が休みの時ピンチヒッターを数回やったが、ピエール瀧の時はうまくはまっていた。

瀧が、自分が何かしなくても無条件に「アタシを笑わせてくれる人」という判断を彼女がしたからである。

ライムスター宇多丸の時もまあまあうまくいっていたが、かなりひやひやした。

彼女からすれば、最後まで「社交すべきかどうか」判断に迷っていたと思う。

宇多丸が、ヘンな隙間があきそうになると、外山アナの声の可愛さを最初から最後まで誉めることで間を持たせていたのでどうにか不快にならずに聴けたという感じ。

最悪だったのは神足裕司のとき(現在くも膜下出血で入院中。早く戻ってきておくれ、コータリン)。

全く会話にならず、BGMがなければ放送事故を何度起こしていたか。

おれは最初の10分でさすがに耐えられなくなり、文化放送にスイッチしてしまった。


いくら利己的であろうと、一般のひとなら別に一向に構わない。

不愉快だと思えば付き合わなければよいのだ。

外山アナがそういう人間であったとしても、そのこと自体は問題ではない。

利己的な面は人間だれしも持っている。

おれだって、もっている

問題はそうした利己的で、なおかつ人を類型化してそれに即した対応しかできない自分に無自覚なまま、公共の電波でフリートークを行う彼女自身と、それに気づいてか気付かずかはたまた経費の問題なのかその両方なのか、わからないが、そんな彼女を起用しているTBSのスタッフならびに会社そのものだ。

相手によって、対応が180度変わるようなしゃべり手の放送はおれは聴かない。


そう、嫌いなら聴かなきゃいいじゃん、おっしゃる通りです。

水木DIGをはじめ、彼女が出ている番組およびコーナーは聴きません、今後も。

そのうえ、2回にまたがった上に今回もついつい長文になってしまったけれど、おれ的に「嫌いな放送」についてどうしても一度オトシマエをつけておかなきゃとずっと思っていたのでこのような形になってしまいました。

もう、彼女の悪口はこれきりにしたいと思います。