ここ数年、徐々にではあるが、映画を見ても感動や興奮することが少なくなってきた。

「最近面白い映画が少なくなってきたなあ」と感じたのが数年前。

その思いの矛先は、当然のごとく作品の方に向けていたのだが、どうやらこれは鑑賞者である私の方に問題があるのかもしれないと思うようになってきた。

私はこれを書いている段階で50歳。

50歳で自分のことを「オジサン」と自称してはいけない、「おじいさん」という自覚を持つべきだ、という話を同年代の友人と先日話していて、至極妥当であるという結論に至った。

「オジサン」は30歳くらいから40代までであろう。

ちなみに、女性はまた違うかもしれない。わからないことについてコメントは控える。

ともかく、そう考えると「オジサン」という期間は、人生100年時代と呼ばれる現代ではとても短い期間に過ぎないのだ。

50歳で「おじいさん」になるとすると、人生で一番長い期間を「おじいさん」として過ごさねばならぬ。

というわけで、私はもう、おじいさんである。

おじいさんといえば、目や耳は悪くなり、足腰はあちこち痛み出す。すぐに疲れる。血圧が上がる。脂肪がつきだす。病気も危惧せねばなるまい。

ろくなことがないのだが、抗っても仕方ない。それは受け入れよう。

しかし、どうしても受け入れがたいものがある。

感受性の減退である。

映画の鑑賞者として、感動できない、興奮できないというのにはいささか参っている。

映画の話にやっと戻ってきたが、老化による感受性の衰えが、映画をつまらなくさせているような気がしてならないのだ。

前述の「おじいさんの定義」は多くの人に当てはめてもいいと思っているが、「老化による感受性の衰え」は私だけなのだろうか。

 

「偶然と想像」。

三つの短編集であるが、それぞれのお話はそれぞれ独立している。

通底しているのは、会話劇であること、そしてタイトルにある「偶然」という言葉である。

 

第1話 魔法(よりもっと不確か)

友人が今好きな人が自分の元カレであり、その元カレもその友人に惹かれつつあることを知った女性が、その元カレのところに向かうが・・・

というお話。

おじいさんの衰えた感受性が早速爆発して申し訳ないのだが、男女の好いた惚れたの恋愛話なんぞ、全く興味がわかない。

恋愛をテーマにするなら昨年公開された「花束みたいな恋をした」くらいの工夫が必要だろう。傑作だった。

 

ただこの第1話、恋愛映画としてそこまで掘り下げる気は濱口竜介監督にはさほどなかったのではないかな。

むしろ、会話劇を用いて軽いコントを作ったに過ぎないのかもしれない。

事実、満員の劇場で時折爆笑が起こる。

ここでまた、私の「おじいさん」が発動する。

「あっ、ここが笑うところなのか」とどうしても客観的になってしまう。

確かに今のやり取りは笑ってもいいところだったかもしれない、というのはわかるのだが、笑えない私。

三つの短編通じてこれは共通した感想だ。

近年のお笑いブームに、一部を除いて、全く乗れないのと同じ。

お話の序盤、主人公の女性二人がタクシーに乗って長々と話をするシーンがあるのだが、タクシードライバーを生業にしている私はむしろバックの風景を見ながら、「ああ、ここはあそこを走っているな」と、話とは全然関係ないところに関心がいっていた。

あと、古川琴音という俳優さんは正直中学生くらいだと思っていたので、大人の恋愛話の主人公としてはなんか違和感あるなあとも観ながら思っていた。(あとで調べたら25歳だった。驚いた。)

第1話観終わった時点で、ああまた乗れない映画見に来ちゃったなという気分に私はなっていた。

 

第2話 扉は開けたままで

セフレ相手の男性に頼まれて、大学教授であり芥川賞受賞作家でもある壮年男性を誘惑して貶めてやろうと、大学の彼の研究室に向かう女性だったが・・・

というお話。

美人局というやつであろうが、私の中のおじいさんがまたもや発動する。

美人局を実行する主人公の女性の動機が、要はちょっと大きすぎる性欲によるものらしいのだが、ちょっと動機が弱くないか?

そもそも芥川賞作家も大学教授もセックスフレンドも現実の私にはまったく縁のない話であり、一ミリも共感できない会話劇がこれまた延々と続く。

第1話同様、随所に爆笑が起こり、コントであることを再認識させられるとともに、またしても、私はクスリとも笑えない。

会話自体に耳を立てていると、これも第1話から思っていたことだが、すべての俳優がやたらと抑揚のない棒読みである。

へたくそだなあと最初は思っていたが、どうやらこれはわざとやっているのではないか、という考えに至った。

昨年、この濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」を見に行ったのだけれど、睡眠不足からか開始早々爆睡してしまい、気づいたころにはもう話が全く分からなくなっていて、そのまま終わってしまったという経験をした。

 

 

つまりどんな話か全く覚えていない、というより見ていないに等しいくらい眠ってしまったのだけれど、「ドライブ・マイ・カー」も俳優がやたら棒読みだったのを少し思い出したのだ。

彼の作風なのかもしれないなとは思った。

第2話は、美人局未遂から5年後が描かれて終わるのだが、正直言って全く面白いとは思わなかった。

 

第3話 もう一度

 

40代くらいと思われる二人の女性が高校生の時以来に再会し、会話を進めていくのだが、何となく様子がおかしな方向に・・・

というお話。

お待たせしました。

散々くさしてきましたがこれは面白かったです。

この3話目を見せるために前の1話2話があったのかもしれないといっても過言ではない。

相変わらず劇場内では笑いが起きていて、感受性が枯れていてなおかつ反射神経のない私は笑わなかったが、これは笑ってもいいと思った。(そうとうひねくれている)

三つのお話の中では一番起伏があって脚本もしっかりしていた、というのが面白かったという感想につながる一因だと思う。

ラストも、なかなかグッとくる終わり方だった。

何を言ってもネタバレになってしまうので、話がどう転んでいくかは1ミリも話せないのだけれど、感じた点で話せることを。

この文章の冒頭に散々加齢の悲しさを述べたが、このお話の40代の主婦が漏らすセリフにこんなのがあった。正確ではないが内容は大体こんな感じ。これを書き留めておきたいがために、老いの悲しさを滔々と述べたのである。

「何かに夢中になる情熱もない。かといって不幸といったら他人から怒られてしまうくらいの暮らしはしている。私は時間に殺されていく。」

めちゃくちゃ共感した。

私もそうだし、多くのオジサン、オバサン、おじいさん、おばあさんが思うところなのではないかと思う。

「一日一日を一生懸命生きる」というのは美しいスローガンである。だが。

ある一定以上の年齢の人間にできることはそれしかないと思うのだが、しかしこれは結構きついことであるのを日々実感している。

さらに、過去にとらわれすぎて、今を生きていくのがつらいという人の姿もこの3話目には描かれている。

これに関しては私は鈍感で、赤江珠緒さんの「3秒前は過去」を本能的に実践できているが、このような悩みを持つ方が少なからずおられるだろうことは「想像」に難くない。

 

第3話で映画が終わり、渋谷の劇場を出た。

どうせ続かないだろうけど、これから、観た映画の感想くらいはおもしろくなくてもブログを使って書き留めておこうと思い、帰りの山手線に乗った。

私は時間に殺されている。

くだらなくても、記録に残すことで、時間に殺されていく自分と対峙できるんじゃんないかという淡い期待を持って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気分がもやもやするので、久しぶりにブログを書く。

もやもやするといっても、何か特別なことがあったわけではない。

コロナの影響で目下仕事は休職中だが、休業手当が出ているし、暮らすことそのものに問題はないのだけれど、時間がありすぎて色々なことを考えてしまう。

もう50歳。

何を考えても悩んでもどうしようもない。

過去は戻らず、未来は、本心を言うと「もういらない」。

やるべきことといえば、子供もいないし、あとは老いた母親の面倒を見るくらいなんだろうなあ。

長い休職期間中、時間は沢山あるので、映画をやたら見た。

本もすごく読んだ。

ときには一人でスタジオに入ってドラムを叩いたり、ギターを弾いたり、歌を歌ってみたりもした。

どれもそれなりに楽しいのだけれど、どれもこれも本当にやりたいことなのかというと、自分の中からはかばかしい答えが見つからない。

本当にやりたいこと?

そんなものはない。

そんなものはないのだとわかっているのに、時折、「やりたいことのない自分」に嫌気がさす。

若いころ、「本当にやりたいこと」がわかっている(ように少なくともおれには見えた)友人知人が何人かいた。

結果なんて関係ない、好きだからやっているんだという趣味なり仕事なりを持っている人が心底うらやましいと思った。

彼らのことを真似てみようとじたばた試みた時期もあったが、彼らのようにはなれなかった。

のちに「本当にやりたいことはおれにはない」と、それは極めて観念的ではあったかもしれないが、はっきりと自覚した。

それはかなり若いころだった。

それ以後、「今楽しければいい」という身構えで生きてきて、今でもそれは間違っちゃいないと、頭ではわかっているのに、どこかでいまだに「本当にやりたいこと」を希求している自分に気づいて、大声で叫びだしたくなる。

こういう悩みは大勢の人が持っているよ。

人の人生なんてそんなもんだよ。

と、いくら自分に言い聞かせても、どこからともなく「そうじゃないんじゃないか?」という悪魔のささやきが聞こえてくる。

こいつがかなり厄介だ。

もう一度「本当にやりたいこと探し」に着手しようか。

しかしそれを見つけることはやはり無理だと思う。

気力体力もいるしね。

そもそも、「本当にやりたいこと」は探すものじゃなく、降ってくるものなのだろう。

「本当にやりたいことがある」というのは、それそのものが「能力」なのだ。

そして残念ながらおれにはその「能力」がなかったというだけの話だ。

ずいぶん昔にわかってたはずじゃないか、何をいまさら。

何を、いまさら。

 

愚痴ったなあ。

男性にも更年期障害というのがあるらしいので、その類いかもしれぬ。

 

楽しいことを書こう。

最近の一番の楽しみは、夢を見ることである。

将来の夢、とかの夢ではなく、睡眠時の「夢」である。

覚醒するとたいがいは忘れてしまうので、記録をとれないことや、見ようと思ってみられるものでもないのが残念だけど、実に多様な夢を特にここ数年見るようになった。

過去の自分の経験、つまりドキュメンタリーな夢もあるし、平素は思いもつかないような、SF映画や小説になりそうな壮大なお話の夢もある。

1人称、つまり自分自身が主人公な時もあれば、映画監督のように第三者の視点で見る時もある。

色々な夢を見ていて、その時はいい気分だったり、ときに悪夢だったりもするが、毎度スリリングなのは間違いなく、就寝前は「いい夢が見られますように」とお祈りする習慣がついてしまったほどだ。

前述したように覚醒すると内容は忘れてしまうのだけれど、覚えている夢もいくつかある。

それは、完全に忘れてしまっていた自分自身の過去が完全によみがえる夢を見た時だ。

覚醒して、「ああ、おれには昔、こんなことがあった」と気づかされることが本当に増えた。

生来おれは忘れっぽいたちで、昔の出来事とか人の名前とかの類は、普段の意識下にあまり上ってこないのだが、記憶というのは脳みそのどこかにしまってあるものなのだなというのが、最近の実感である。

例えば、恋愛。

○○ちゃんに告白して玉砕したなあ、とか、○○ちゃんのこと片想いしてたけどあのタイミングだったらイケたっぽい、とかね。

くだらないけど。

「あの時○○ちゃんは、おれのことが好きだったんじゃないか」なんていうことを想起させてくれる夢もちょいちょいある。

自分は女性にもてる男ではないと思っていたけれど、そうでもなかったんじゃね?と、思わせてくれたりする夢。

全く付き合ってもいないのに、なぜか○○ちゃんと真夜中に手をつないで歩いたとか、そういえば○○ちゃんからやたらと飲みに誘われたなあとか、その類いだけど。

ほんとくだらないね。お恥ずかしい。

そのかわり生々しい性的な夢はほとんど見ない。

あと、実際に恋愛が成就したひとは、ワンナイトラブ的な人や離婚した昔の妻を含めて、全く夢には登場してこない。

なんでだろうな。

 

夢で思い出したので書く。

いささかSFチックで幼稚な考えだといわれるのを覚悟でいうと、人の人生っていうのはそれそのものが「誰かがみてる夢」なんじゃないかって気がするんだ。

つまり、その誰かが目覚めたときに、おれは死ぬんだな、って。

割と幼いころに思いついたことで、久しく忘れていたが、この歳になってあらためて、あながち間違ってないような気がする。

筒井康隆とか星新一とかを小さいころから読んでるから、その影響かもしれないし、自分の人生に対する不満足を誰か自分以外のせいにしたいという卑怯な逃げ口上かもしれないね。

 

くだらないことをたくさん書いたけど、ちょっとすっきりした。

今晩はいい夢が見れますように。

 

タクシードライバーになって3か月たった。

デビューから現在46乗務。

数字の羅列です。

ベテランの方、もし見ていたらアドバイスくださるとうれしいです。

曜日・税抜売上・営業回数・実車率・特記事項。

㈮ 39140 33 42.71

㈰ 40630 28 41.56

㈫ 55450 37 53.66

㈯ 46590 32 45.45

㈪ 56650 38 51.77

㈬ 47650 34 44.72

㈰ 43700 34 43.25

㈫ 64930 40 57.23

㈭ 70210 44 61.97

㈯ 50210 39 ?

㈬ 70800 46 60.74

㈮ 62540 38 55.05

㈫ 38460 26 55.05 物損事故

㈭ 69050 45 58.53

㈯ 50990 35 51.52

㈬ 69170 40 61.52

㈮ 74160 47 69.41

㈰ 62800 37 54.45

㈫ 56040 36 60.02

㈭ 56580 39 55.95

㈯ 52760 42 55.54

㈪ 51770 39 48.12

㈮ 41430 26 46.83

㈰ 44760 34 42.33

㈫ 65870 41 60.51

㈭ 64690 43 59.48

㈪ 63550 39 59.82

㈬ 54210 38 53.46

㈰ 53240 30 49.77

㈫ 60560 39 57.05

㈭ 34380 25 57.37 翌日予定あったため実質早退

㈪ 59340 41 57.55

㈬ 66090 42 60.50

㈮ 52200 38 57.51 物損事故

㈫ 64390 37 61.33

㈭ 73100 43 65.65

㈬ 42440 31 57.24 どうしてもやる気出ず日付変わる前に帰庫

 

明日も乗務。なんか煮詰まってます。面白くなくてスイマセン。

 

書店内をあてどなく歩き、気にとまれば手に取り、眺め、時には買う。

小学生の頃から続くこの習慣があと数年で50歳を迎える今でも変わらず続いている。

先日、都内の中堅書店をうろついていて目があったのがこの本。

「筒井康隆入門」 佐々木敦・著

 

 

「あっ、そういえばこういうのなかった」と思い、中をパラパラ見た後、即購入。

特定の作家を論じた本は星の数ほどあるのに、その長いキャリアに比して、筒井康隆についてのこういう本は今までなかったと思う。

なぜ今までこういう本が出なかったのか。

①まず著作がべらぼうに多いうえに、ジャンルが多岐にわたっていること。

②筒井先生が作家としてのキャリアが60年近くなった今でも創作を続けており、なおかつ、作品の内容に衰えが感じられないこと。

③下手に論じると、ツツイストもしくは筒井先生本人から猛反撃にあうであろうこと。

これらのことは私にも容易に想像できるし、誰より著者の佐々木氏自身が相当の反論を覚悟していたことであろう。

実に勇気ある出版だと賞賛したい。

 

内容は時代ごとに5章立てになっている。

 

第一章 SFの時代 デビュー作「お助け」(1960年)から『脱走と追跡のサンバ』(1971年)へ
第二章 黒い笑いの時代 『家族八景』(1972年)から『大いなる助走』(1979年)へ
第三章 超虚構の時代 『虚人たち』(1981年)から『文学部唯野教授』(1990年)へ
第四章 炎上の時代 断筆宣言(1993年)から『巨船ベラス・レトラス』(2007年)へ
第五章 GODの時代 『ダンシング・ヴァニティ』(2008年)から『モナドの領域』(2015年)へ

 

「入門」とタイトルがついているけれど、私のように長年筒井作品に親しんできたものからすると、時系列を整理してくれているのがありがたい。

いわゆる「ツツイスト」と呼ばれるハードコアなファンの人はもうとっくに読破されていると思うけれど、私のように「8割がた読んでる」というくらいの人から、「何冊かは読んでて好きな作品が多い」位の人にもうってつけの一冊だと思う。

逆に言うと、筒井作品に全く触れてこなかった人はまず手に取らないだろうなとも思うが、「時をかける少女」「七瀬三部作」など、映像化されている作品も膨大にあるので、筒井作品に全くかかわっていないという人はむしろ少数派であろう。

著者もこの本の中で同じことを言っている。

そういった方にも是非お勧めしたい。

 

以下は私のことを書く。

このブログでもどこかで述べていると思うけれど、私の読書体験は、小学4年か5年の時、筒井康隆のジュブナイル「ミラーマンの時間」の文庫本と偶然本屋で「目があってしまった」のが全ての始まりだ。

物を持ちすぎるのが嫌で、定期的に本やレコードなどは捨ててしまうのだけれど、これは幸運にもいまだ手元にある。

 

記憶力が極端に悪い私が、この本を買って読んだのが小学4年か5年だと珍しく断言できるのは、巻末に「昭和五十五年十月三十日 九版発行」と書いてあるからだ。

古本屋ではなく、普通の町の書店で買ったものであるし、当時すでに「流行作家」の仲間入りをされていたツツイ先生の本で極端に古い本は置いていないはず。

だとすれば、私の当時の年齢が小学4年か5年だったことに間違いない。

公文書がどうのこうのと世間では今大騒ぎだが、「記憶より記録」の方が精確なのは個人レベルでも同じだ。

「ミラーマンの時間」を何度も何度も読み、小説の面白さに目覚めた私はこの後、筒井康隆の小説を読み漁ることになるのだけれど、すでにこの時点でツツイ先生は作家デビューして20年たっているうえに、多作であったため、数には事欠かない。

古本屋に売ってる文庫を買って片っ端から読んだ。

しかし同時にツツイ先生も新刊をどんどん出す。

私もどんどん読むが一向に新刊に追いつかない。

筒井康隆で小説にはまった人の当然のラインとして私も、星新一、小松左京、光瀬龍、豊田有恒、広瀬正などの日本の他のSF作家や、クラーク、ハインライン、アシモフ等、海外の作家の作品も読むようになっていたし、読書ばかりに耽溺していたわけでもないので、なかなか追いつかない。

大体(全部ではない。8,9割くらいだと思う)読んだな、とようやく思えて、新刊のハードカバーを初めて買ったのが「パプリカ」。

 

これも巻末を見てみると、「1993年12月25日6版発行」(初版は同年9月)と書いてあるから、すでに私は大学を卒業してこの時は社会人一年生。

おそらく冬のボーナスをもらった直後でお金もあったのだろうな、と想像できる。

他の作家の本や、小説以外の本はすでにハードカバーを買うことに抵抗はなくなっていたが、「筒井康隆の新刊小説をハードカバーで買う」という事が非常に感慨深かったのを覚えている。

「ミラーマンの時間」で小説を読むようになってから実に、13年越しの出来事であった。

さあこれからはリアルタイムで新刊をじっくり読むぞ、と決意したのもつかの間、ほぼ同時期にツツイ先生は「断筆宣言」してしまった。

かといってさほど驚きもしなかった。

もちろん思い入れの大きい作家ではあるが、世の中に本はいっぱいあるし、ほかにやることもたくさんあるし、という感じだったし、何よりこれはツツイ先生の何かしらのパフォーマンスかなとも思った。

何年か後に「断筆解除」した後は、「エンガッツィオ司令塔」「魚籃観音記」「わたしのグランパ」「敵」「恐怖」などを散発的に新刊で買って読んだが、いざリアルタイムに追いついてみると、すでに「筒井に夢中」ではない自分に気づかされた。

作品そのものの変化は感じたけれど、衰えたとは思えない。どれを読んでも滅茶苦茶に面白かった。しかし、なのだ。

この辺の理由は時間もたっているし、すでにはっきりしないが、おそらく私自身の変化だと思う。

現時点で私の手元にある筒井康隆の著作で一番新しいのはこれ。

「銀齢の果て」。

 

例によって巻末を見ると「2006年1月20日発行」となっている。

なんと12年もの間、ツツイ作品を買って読んでいないことになる。

何だかわからんが、これではいかん!と思う。

 

「筒井康隆入門」に戻ると、近年にあたる

第五章 GODの時代 『ダンシング・ヴァニティ』(2008年)から『モナドの領域』(2015年)

までがすっぽり抜け落ちていることになる。読まねば、という気持ちになっている。

とはいえ、読みたい本は他にも山ほどあるし、映画も観たい、その他もろもろやっておきたいこともたくさんあるからどこまでできるやら。

前にも言った気がするけど、筒井先生、無茶を言うようで恐縮ですが、おれより長生きしてください。

 

へーいみんな、屈託してるかい?

1月は大嫌いだ。

毎年のことなんで分かっちゃいるけど、1月は仕事が1年で1番少なくて収入もそれに比例するから、日銭で暮らす私の不安はいやがおうにも増す。

寒いのも嫌いだ。

真冬に雪の中バイクでツーリングしたりスノーボードやったりしてた若いころの自分が今となっては信じられない。外出が億劫でしょうがない。家にいることが増えるから俄然暖房費がかさみ、電気料金の請求金額を見て、さらに屈託する。

しかし1月の何が一番嫌かって、自分の誕生月だってこと。

特に、誕生日は明日だな、今日だな、と意識するようになったこと自体がどうにも不愉快なのだ。

昔は誕生日なんて、付き合ってる女性がいたり、女房がいた時以外は、スラスラ~といつの間にか過ぎ去っていくだけのものだったのに、今は「もうすぐ誕生日だな、ああ明日だな、今日だな」などと考えている自分がいる。

誰かに祝ってほしいわけじゃない。

ただ、また年齢が一つ確実に増えますよあんた、とカレンダーが呼び続けているような気がするのがどうにも辛い。

 

色川武大(=阿佐田哲也)の小説やエッセイを、麻雀小僧だった高校生くらいの時に読み漁った。

色川名義では主に私小説風の作品、阿佐田名義では「麻雀放浪記」に代表されるギャンブル小説というふうに分かれていたが、同一人物なのだから当然通底しているテーマが作品ににじみ出てくる。

ズバリ「屈託」である。

 

(大体私は、引っ込み思案のせいもあるが、一種のナルシストであって、自分で自分のバランスをこわそうとしない。他のことは破れかぶれで平気だが、内心のバランスだけは必死で守る。そのためなら何物を捨てても惜しくない、とそう思うのではなく、身体が自然にそう動いてしまう。ナルシストというものは、単にそれだけではないにしろ、そこの部分が邪魔になって、生一本に他人を愛することができにくい。) 「五十歳記念」 色川武大・著 「引越貧乏」所蔵 より抜粋

 

どうだ辛気臭いだろう(笑)。

どこまで自分が好きなんだ、と思われるかもしれないが、この辛気臭さ、ナルシスティックな部分を隠さず赤裸々につづった文章が今も昔も大好きだ。

上記の「五十歳記念」を含む短編集「引越貧乏」は、色川氏が60歳で鬼籍に入られたのちに出版された作品で、筆者は当時18歳か19歳でこれを読んだ。

詳しい心情は割愛するが「ああこれはおれのことを書いているな」と思い、胸を打たれたのを昨日のことのように思い出す。

あれから数十年たって、現実に自分自身が50歳まであと数年となった今読み返してみると、「屈託」の質は今も昔も全く変わっていない。

と同時に、当時の理解が「観念的」であったと痛感もする。

歳をとれば元気はなくなる、体のあちこちにガタが来る、集中力がなくなる、こういった明らかなマイナス要因がいやがおうにも増えていくのは当時もわかっていたはずだが、この「屈託」がまさか47歳にもなっても変わらないとは。

「三つ子の魂百まで」が本当だとすると、死ぬまで同じ屈託を抱え続けることになるはずである。

これはつらい。

それどころか、前述した「元気のなさ・体のガタ・集中力のなさ・性欲減退・疲れやすい(みろ、書いているうちにいくつか増えてしまったではないか)」が大幅にプラスされている分だけ実感が増している。つまり「身体的」に感じるようになってきて、「屈託」のレベルもフェーズが上がったのだ。

「上がったのだ」と偉そうに断言できたところで、なーんもいいことがないしなーんも解決しない。

対処のしようがない。誰か助けておくれ。

 

「引越貧乏」色川武大・著

 

引越貧乏 引越貧乏
 
Amazon

 

 

あけましておめでとうございます。

今年も一応やっておきましょう、年間ベストテン。

とはいえ、2016年に比べて劇場に行った回数は減りました。

映画がつまらなくなったとかそれ以外で忙しくなったとかではなく、タイミングが合わずに観たくても観られなかった作品がとても多かったという印象があります。

ベストテンをあげる前に、観たかったけど結果的に未見の作品を思いつくまま一応ズラズラっとあげておきましょう。

「ドリーム」「アトミックブロンド」「スパイダーマンホームカミング」「ガーディアンズオブギャラクシーリミックス」「ありがとうトニエルドマン」「GODZILLA(アニメ版)」「三度目の殺人」「レゴニンジャゴー」「我は神なり」「バリーシール」「IT それが見えたら終わり」「予兆」「ローガンラッキー」などなど。その他ミニシアター系多数。

観てないから何とも言えませんが、上記作品の中で数本はベストテンに入りそうなものがあるような気がします(特にアトミックブロンドなんて多分間違いないと思うんだけど、観てないんで。悔しい)。

では観た中でベストテンを。今年は無理くり順位をつけてみます。

 

1位 「ベイビー・ドライバー」

 

これはほとんど迷わずの1位。かっこいいカーチェイスと最高の音楽。シンプルなお話。主人公のベイビーも恋人のデボラもケヴィン・スペイシーも強盗の連中もみんな素晴らしい。素晴らしすぎてあまり言うことがないんだ。何の予備知識も不要。サントラ必聴。もうすぐDVDも出る(2018年1月24日リリース)ので必ず観ましょう。

「ベイビードライバー」だけ特別に、ネットにアップされてた冒頭6分間のカーチェイス場面を張り付けておきます。待機してるベイビーがジョンスペンサーになりきってるところがかわいいし、一転いざクルマをスタートさせた後のカーアクションは「Bellbottoms」にいちいちリンクしてるうえに神テクのカッコよさ。ヤッパリクルマはマニュアル車じゃないとなあ。赤のスバルWRXほしい。誰か400万円ください。この映像で興味出なかったら、観なくていいです。

 

「ベイビー・ドライバー」オフィシャルサイト

 

2位 「散歩する侵略者」

 

黒沢清映画は新作を見るたびに最高傑作だと思えてしまう。これもそう。社会の隙間を切り取って映像化する能力は今や世界一かもしれない。「概念」でどうにか成り立っている(ように見える)私たちの社会を示すと同時に、「概念」がいかに私たちの自由な行動や思想を滞らせているかをぐさりとみせてくれる。お堅いテーマは別にして、「侵略者」と長谷川博己さん扮するジャーナリストが徐々にバディ感を増していくさまも中々グッとくる展開です。長澤まさみさんは女ざかり役者ざかり、今絶頂期ですね。美しくてかっこいい。

「散歩する侵略者」オフィシャルサイト

 

3位 「新感染ファイナルエクスプレス」

 

ゾンビ映画がいつまでたっても滅びないのは、「人間のようでありながら人間じゃない存在」を出すことによって、「人間とは何か」という問いを訴えるのに便利だからだと思う。近年「AI」を取り扱う作品が増えているのと理由は同じではないか。ゾンビを発明したロメロ監督が鬼籍に入られた2017年にもまたゾンビ映画の傑作が、今度は何と韓国から出ました。とはいえ、どちらかといえば「人間とは何かを問う」的な哲学する映画ではなく、極上のエンタテインメント作品です。シンプルで面白い。子役の女の子が天才。

「新感染 ファイナルエクスプレス」オフィシャルサイト

 

4位 「沈黙 サイレンス」

 

ベストテンの中で、テーマに重きを置き何かを考えさせる傾向の作品はこの「沈黙」だけになってしまった。「散歩する~」が比較的そういう映画だけど、SFだし、それなりにアクション映画でもあるしね。ホントいうと、年齢を重ねるたび、楽しくてわくわくどきどきするお話以外あまり見たくも聞きたくもなくなってきてるのです。そんな状態の筆者でも、この作品の、胸を締め付けられる感じは筆舌に尽くしがたい。自分自身は無宗教だから、宗教に振り回される人々を見てると「ばっかじゃねーの」と思ってもいいはずなのに、そんな簡単に片づけられない。いまだに答えは出ない。スコセッシが変に盛らずに、遠藤周作の原作にほぼ忠実に撮ったのが功を奏した。キャストが全員凄い演技。

「沈黙 サイレンス」オフィシャルサイト

 

5位 「ララランド」

 

ベストテン選びで「ブレードランナー2049」も「ナイスガイズ!」も候補だったんだけれど、ライアンゴズリング主演作を3つ入れるのは良くないという変なバランス感覚がはたらいてしまった、というわけでもないが、結局「ララランド」入れました。冒頭の超長尺大人数渋滞ダンスシーンでもう1億点。ミュージカル映画ってだけで敬遠してしまう人の気持ちは筆者もそうだったからよくわかりますが、これは大丈夫です。カラフル、シンプル、ライアンかっこいい、という小学生並みの感想ですみませんが、そういう事です(笑)。選ばなかった人生って思い出す分には美しいけど、目を開ければ現実は一つなのよね、という人生の機微も感じさせてくれます。ラストシーンがよく分からないという意見をネットで散見しますが、筆者からするとなぜわからないのかわからない。分からない人いたらごめんなさい。

「ララランド」オフィシャルサイト

 

6位 「猿の惑星 聖戦記」

 

これが6位か。もうちょっと順位上げようかなあ。でもきりがないので。古典SFのリブートで3部作の最終作、っていうとその時点で見る気がなくなる人の気持ち、分かります。分かりますが、黙ってリブート1作目の「猿の惑星 創世記」を観てほしい。ツタヤならとっくに旧作だから100円だし、配信でも観られます。そうすれば必ず2作目「新世紀」を観ずにおれないし、いつの間にか「聖戦記」のDVD化を待ち遠しく感じるに違いありません。「新感染~」のところでも触れたように、「人間のようなものを登場させること」によって「人間とは何か」という問いを投げかけるという手法において、今シリーズの「知能を得た猿たち」は、ゾンビやAIに当たる存在ですが、1作目からすでに「人間いーらない、サルがんばれ」というおかしなことになっている自分に気づかされます。この話は主人公(主猿公?)アーサーの成長譚です。1作につき2、3人「いい人間」がちょいちょい出てくることで、「あ、おれ人間だった」と思い出すことができます。オリジナル「猿の惑星」は見なくても大丈夫。筆者もうっすらとしか覚えてません。3部作合わせれば文句なく1位。

「猿の惑星 聖戦記」オフィシャルサイト

 

7位 「コクソン」

 

ベストテンの中では、一番難解な作品かもしれません。韓国の田舎の村で人が次々死んでいく中、わざわざ日本からきて一人で暮らしている國村準がどーも怪しい、っていう話で、筆者も劇場で2回、DVDで1回、計3度観ましたが何がどーなってるのか実はよくわかりません(笑)。それでも画面から目が離せないし、近いうちまたみてしまいそう。國村準さんのふんどし姿とかシカを食ってるシーンが有名ですが、それすら虚構内虚構なのかドラマの中では現実なのか、観客にその判断はゆだねられます。國村準さんは、それ以外のシーンではとても物静かな男を演じてます。でも、というか、だからこそ村人たちが恐怖の存在として彼を見るし、観客にも同様の感情を想起させます。ポン・ジュノが撮ってると言ってもおかしくない異様な作品ですが、監督は「チェイサー」のナ・ホンジン。韓国映画の奥深さを再認識させられます。

「コクソン」オフィシャルサイト

 

8位 「ゲットアウト」

 

何を言ってもネタバレになってしまう、説明するのに難しい映画。黒人のにーちゃんが白人の彼女の実家に遊びにいくが、どーもおかしい、何かが変だ、というのが徐々に観客にもわかってきて、「え、まさか?」「え、もしかするとこの人は?」の連続で、ある時点から大変なことになります。「ユージュアル・サスペクツ」とか、未見の人に面白さ説明できない映画ってありますよね。あれと同じで、「なんもいえねえ」。人種の違いが題材ではあるんだけど、人種差別を非難するといった社会派映画とは少し違うんだなあ。うーんこのくらいがギリギリか。怖いです。面白さ文句なしに保証します。

「ゲットアウト」オフィシャルサイト

 

9位 「ギフテッド」

 

ベストテンの中で唯一、はっきりと「ヒューマンドラマ」といいきれる映画です。じゃあそれ以外は何だと言われても困りますがそう思ってください(笑)。筆者は「(500)日のサマー」のマーク・ウエブ監督最新作というのがきっかけで観に行きましたが、この予告編だけだったら見に行かなかったかもしれないな(笑)。父母を亡くした天才数学少女を、亡き母の弟である叔父が引き取って普通の子として育てようとします。普通の学校に入れずに数学の才能を伸ばすべきだと主張する少女の祖母や周囲との葛藤がドラマの根幹。直接の両親よりも、叔父さん叔母さんと甥っ子姪っ子の関係のほうが遠すぎず近すぎずちょうどいいというのは、筆者自身の体験でも感じますし、同様に思う人は多いのではないでしょうか。2017年トップ10に入れたかった佳作、「マンチェスターバイザシー」も叔父甥の関係性が軸になっていてこちらもいい映画でした。「新感染~」と同様かそれ以上に、主役の子役の女の子の演技が天才的。天才が天才を演じています。乳歯が生え変わる時期の子供が一番かわいいと誰かが言ってましたが、「ギフテッド」観てて筆者もそう思いました。この子観るだけで一見の価値があります。良作。しつこいようですが、ヒューマンドラマです(おれは何を言っているんだろう)。

「gifted / ギフテッド」オフィシャルサイト

 

10位 「お嬢さん」

 

サラ・ウォーターズの原作小説「荊の城」をずいぶん前に読んでいたので、どういう話かは大体わかっていましたが、初見でこの映画を見たときに「あれえこんな話だっけ」と思うくらい、全く別のお話に感じてしまう映画です。アダルトビデオには疎い筆者ですが、どんなエロ映画よりもエロいのです。どうエロいかを説明するには筆者の語彙力が不足していることに今気づかされています。上映中に、男性として、明らかにするには恥ずかしい身体反応が起きてしまったというにとどめておきましょう。映画には濡れ場とかベッドシーンとかがつきものではありますが、筆者にはめったにない経験でした。なんなんだあの玉はあああ!!!!(映画を見ればわかります。いややっぱりわからないw)

失礼しました。映画を見た後、小説を再度読み直したら、意外にもストーリーはほぼ原作に忠実でした。舞台が原作ではヨーロッパでしたが、韓国に移したら印象が変わった、だけではすまない作品です。

「お嬢さん」オフィシャルサイト

 

選んだ。疲れた。難しかった。10本選んで順位つけるのに何の意味があるのか考え出すと途中でやめたくもなりましたが、私の2017ベストテンはあらためてこうなりました。

 

1位 「ベイビードライバー」

2位 「散歩する侵略者」

3位 「新感染ファイナルエクスプレス」

4位 「沈黙 サイレンス」

5位 「ララランド」

6位 「猿の惑星 聖戦記」

7位 「コクソン」

8位 「ゲットアウト」

9位 「gifted / ギフテッド」

10位「お嬢さん」

 

もちろん、選に漏れた作品は多数ありますが、昨年に引き続き、きりがないので割愛。

1位はあまり悩まずに決定。他はまあ順位どうでもいいっす。「沈黙」のところでも述べましたが、割とエンタメ系の作品が多くなりましたね。あまり映画で重いことを考えさせられたりしたくなくなってきたんです。現実世界が鬱屈することばかりだから、映画見てる時くらい、っていう気持ちがあるのかもしれません。日本映画は「散歩する侵略者」だけですね。2016は結構邦画をランクインさせましたが、良作が少なかったのかな?ちょっとわかりません。その代わり韓国映画が3本はいってますね。どこの国の映画が好きとか嫌いとか全く区別してないからまあいいんですけど。分析はここまで。気になる作品があったらDVD等々でチェックしてみてください。

長文読んでいただき、ありがとうございました。

 

2016年に観た映画の中で印象深かった10作品を紹介させていただきます。

劇場で見たものに加えて、某ツタヤでの新作あるいは準新作で初見だった作品も含まれています。

それぞれの作品にごく僅かに短評をつけますが、私は映画マニアというほどの知識も教養もないので、観る前にもっとちゃんと知りたいという人は、映画のタイトルの後に「宇多丸」とか「町山」とかつけて検索してください。プロの評論が聴けたり読めたりします。

順位はつけません。

映画の要素、例えば「アクションが良かった」「脚本がいい」「映像がキレイ」「役者がいい」などと事細かに項目立てて評価することはできなくもないですが、それらを数値化し、全て足し算して最高得点のものが1位になるかというと、決してそうはならないからです。

 

「オデッセイ」

 

(生きるために必要なこと)

とにかく諦めない。生きてる限り最善を尽くす。できない理由を探さずにできることをやる。状況が厳しいときほどギャグで乗り切る。音楽のちから。絶対時間と相対時間の相違は時に残酷な結果をもたらす。それでも、諦めない。前だけを見て生きるしかない。SFというジャンルに限れば今年ナンバーワン。逆に言うと、SF作品全体としては少し物足りない一年でもあった気がします。

 

「クリーピー 偽りの隣人」

 

(狂気はすぐそこにある)

お住まいの方には申し訳ないけれど、関東南部をぐるっと回る環状線にして大動脈、国道16号線沿いには狂気が潜みやすい匂いを昔から感じていました。私自身が千葉県柏市出身。野田・春日部・川越・入間・瑞穂・羽村・八王子、そしてこの映画の舞台とされる日野。匂いが近いんです、どの町も。モチーフは北九州連続監禁殺人事件。凄い映画だけど不快な映画。2度と見たくない。けど忘れられない。香川照之ヤバすぎ。サイコパスは一定の割合で確実に存在します。私も時折、自分を疑うことがあります。

 

「火の山のマリア」

(境遇と出自による限界)

主人公マリアは必死に生きようとする。尊厳を守ろう、自分らしく生きようと奮闘する。しかし、自分の出自に勝つには高すぎる壁がある。自分の国の病院なのに言葉が通じないという一点においてだけでも、少なくとも日本人の私には想像を絶する残酷な世界。無理なものは無理なんだと言われて、抗おうにもやはり限界はあるのだ。受け入れることだけが人生だとしたら、虚無に打ち勝つ術はどのくらいあるのだろうか。辛い。

 

「この世界の片隅に」

 

(すずさんは、私の祖母よりちょっと後輩)

私の祖母は最初の夫を戦争で亡くしました。その後、亡夫の弟の嫁になりました。私の母は4人きょうだいの一番上ですが、母だけが父親が違うそうです。大人になってから知らされました。つまり、私にとっての血縁上の本当の祖父はあったことも見たこともない、祖母にとっては最初の夫です。戦争中にはよくあったことだそうです。その他、今では考えられない「よくあったこと」が、いくつものテーマを伴って重層的に描かれている映画です。原爆ですら、脇役です。血がどうであろうと、私にとってのおじいちゃんは、海に連れて行ってくれた、私の作文をほめてくれた、こっそりサイダーを買ってくれた、ドライブに連れて行ってくれた、弟のほうのおじいちゃんだけです。祖母はまだ、存命です。すずさんも今も生きていて、広島カープの応援をしていることでしょう。私はヤクルトスワローズしか愛せませんが。

 

「スポットライト 世紀のスクープ」

 

(この世はともかく、デタラメである)

社会学者宮台真司さんがよく発するセリフを引用しましたが、この映画の背景も「世の中のデタラメさ」にまみれています。幼児的に育つがゆえに、聖職に「しか」つけない人間。聖職者は結婚できないという「心地よい逃げ場」を与えられたひとの犠牲になるのは、聖職者に信仰を託す子供たち。負のスパイラル。何千年も続く宗教だけに、同じくらいの「隠ぺいの歴史」もあることでしょう。この映画においては、それらの重い罪を根気強く暴いていく記者たちのバディ感が確かに痛快ですが、私は「デタラメな世の中でいかに生きていくか」を考えさせられる方にどうしてもシフトしてしまいます。程度の差こそあれ、自分もその「デタラメな世界」の成員であることも含めて。

 

「葛城事件」

 

(家族の形にこだわりすぎるゆえの悲劇)

父。親から引き継いだにすぎない小さな商売と家だけが持ち物。家父長制への行き過ぎるこだわり。映画の最初から最後まで徹頭徹尾ダメ人間。笑えないダメ人間(『笑えない』が大きなポイントです)。

母。夫に逆らえないためどんどん追い込まれる。ようやく家出などして抗ってみるが時すでに遅し。狂う。

長男。父親に大きな影響を受けているが、反面教師的にみていたのか責任感が強い男に育つ。しかしその責任感が強すぎた。何でもかんでも抱え込んでしまい、自殺。

次男。唯一父親への反発を幼少時からあらわにしていて、「希望の存在」になってもいいはずなのに、性格はこいつのほうが親父譲り。徹底的に利己的。結果は「殺人犯で死刑囚」。

死刑囚の次男と獄中結婚する女。利他的にふるまおうとするも、スクリーンに映る彼女は「聖母としてふるまいたい自分が好きなだけ」。痛い。

「クリーピー」同様、否、それ以上に、2度と見たくない不快すぎる傑作。こういう映画見ちゃうから再婚する気にならないのかな。いや人のせいにするのはやめよう。

 

「コップカー」

 

(半グレの小学生の男の子が遭遇した、厳しすぎる大人の世界)

10作品の中で唯一、難しいことを考えないで楽しめた作品。

がんばれ小学生男子!と拳を握りながら見たい一作。

無邪気な子供たちが、ケヴィンベーコン扮する悪徳警官によって「あれ、世の中って結構やばいのかも」と徐々に認識していくさまを見るにつけ「がんばれ何とか乗り切れ」と全力で応援したくなること請け合いです。逆に「ケヴィン!早く悪ガキどもをやっつけろ!」という気持ちで見ていたという友人もいます。同じ作品でも、人によって感想が違うから映画は面白いですね。

こういう映画をホントはもっと見たいんです。

 

「アイアムアヒーロー」

 

(ダメダメなおっさんが「受け入れる男」になっていくさま)

漫画家になって世に認められたい、っていう人は星の数ほどはいて捨てるほどいるんでしょうね。大成しそうにないと徐々に分かってくる大泉洋扮する主人公鈴木英雄が、ゾンビの増殖によって自分のやるべきこと、できることを実行できたりできなかったりしながら、「受け入れる男」に移っていくさまをみていると、45歳になった今でもどこかでエキセントリックな自意識を捨てきれない自分としては、せつない気持ちでいっぱいになります。冒頭では名前を聞かれると、「英雄(えいゆう)と書いて、ヒデオ」と言っていたのが、終りの方になると、「ヒデオ、ただの、ヒデオ」と変わっていくところもまた、「受け入れる男」に変貌していくさまを象徴していてグッときます。ゾンビ映画という、今や使い古されたと思われるジャンルにも、まだまだ新しい道があることを感じさせてくれました。これ、大傑作だと思います。長澤まさみさんが男前で美しくてかっこいいです。

 

「デッドプール」

 

(ギャグと下ネタは、人類を救う)

劇場での初見の時は、「アメコミもこういうのやらないと飽きられるっていうのわかってきてるのかな」位にしか思わなかったんですが、「この世界の片隅に」を見てから、世界観は真逆ともいえるこの映画をなぜか連想してしまい、DVDで見返して、結果大傑作にシフトしました。異論はあるかもしれませんが、笑う事、ギャグを発信することだけが、人を支えるんだと改めて思います。すずさん(=のんa.k.a能年玲奈)、この「デッドプール」のウエイド(=ライアン・レイノルズ)、「オデッセイ」のワトニー(=マット・デイモン)は、2016年の私にとっての3大ヒーローヒロインです。もちろんそんな難しく考えなくても、楽しいアクション映画です。かなりお下品なセリフが連発されるので気を付けてください。

 

「シン・ゴジラ」

 

(大人の怪獣映画)

3.11以降のことや、日米安保のことなど、政治・社会・国際情勢について考えを巡らせるのに適した作品であることは間違いないです。ネット上掘ればその類の論議はあちこちにあります。私なりの意見もなくはないですが、ここでは言及を避けます。カイジュウが好きなんです。何のかんの言ってゴジラが大好きなんです。格差社会と言われて久しいですが、その象徴ともいうべき都心の巨大ビル群をバッキバキとなぎ倒していくゴジラに、カタルシスを感じざるを得ないのです。テロリストが跋扈し、大きな自然災害が続く世の中で、不謹慎と思われてもこれが本音なんです。自衛隊だけでなく、はたらく自動車や電車たちもゴジラに立ち向かいます。お子さん向きではないと思います。2度目の劇場鑑賞の帰り際、「仮面ライダーのほうがよかった」と小さな男の子がお父さんに言っているのを聞きました。政治劇の部分が大半を占めます。石原さとみさんが、難しい役をよく演じきったと思います。

 

以上10作品いかがだったでしょうか。

気になる作品があったら、劇場なりレンタルDVDなりでチェックしてみてください。

次点候補をいくつか書き出してみたのですが、きりがないのですべて泣く泣く消去しました。

そのくらいいい映画が多かった年でした。

特に邦画のレベルが格段に上がった気がします。

2017年もいい映画にたくさん出会いたいです。

 

 

 

 

皆様大変ご無沙汰しております。

思うところあって、長らく放置しておいたこのブログを、また定期的に再開しようと思います。

しかし、以前のように、ラジオを中心に書くことはもうできません。

事実、いつからか、ラジオと全く関係ない記事のほうが多くなってしまいました。

どういう内容にするか思案中ですが、とりあえずタイトルだけ「断念しつつも、あきらめない(仮)」に変えておきました。

宮台真司さんの著書に出てきた言葉だったような気がしますが、不確かです。

出典はともかく、いつからか、自分を支える言葉のひとつになっています。

タイトルはあくまで「(仮)」です。違うものに変えるかもしれません。

記事を投稿しない間も、ブログ内を色々工事すると思います。ご承知おきください。

取り急ぎ、今回はここまでです。

 

珍しく早く帰ってきてユーチューブをだらだら見てたんよ。
いいんだ、ラットが。
おれの中の「メタルの原点の一つ」に、ラットがあることは間違いない。
んで、これは誰が何と言おうと名盤なんだよ。
パンクに出会う直前くらいまでの、最高のロックンロールアルバムはこれだったんだ。
聴けってんだこのやろう。捨て曲がねえ。
というより、ラモーンズと一緒で「全部一緒じゃねえか」て言うツッコミも甘んじて受けよう。
今相当酒が入ってるから、明日には恥ずかしいと思ってるだろうな。
いいんだよ。3秒前は過去。


トランペットは難しいのでちょっとおいといて、すぐに音が出るらしいということでアルトサックスを買った。
とにかく管楽器をやりたかったんよ。
赤江のタマちゃんみたいにセレブではないので、ヤマハだのヤナギサワだのは買えぬ。
3万円の初心者セット、届いた日にとりあえず音が出ることを確認。
運指もキーもよくわからぬまま翌日にバンドでデビュー。
つっても、月一くらいで集まって、録音だけして遊ぶというノイズバンドに入れてもらってるだけなんだけど。
はっきりとは言わないけどこのバンド、リーダーが「コッソリ続けたい」という意向のようなので、あまり大々的には発表しにくい。
でもおれのサックスデビューアルバムの完パケができてしかも結構いい出来なので、コッソリ発表。ここならいいだろう。バンド関係の友人には教えてないし。
我ながら結構いい仕事してると思うんだけどどうか。

collapsar/永遠にポークを焼き続ける仕事
collaspar