こんばんは。
ご覧頂きありがとうございます😊
本日も想像力と貴女(きみ)の名はというテーマで
MAY メイ(2002)
(原題:MAY)
という映画を解説してみたいと思いますのでどうぞよろしくお願いいたします。
★想像力と貴女(きみ)の名は、とは?
男性名の映画に比べ、女性の名を冠した作品の数はほぼ無限!!
ですが、あまりにも多すぎる事が災いして、近年では女性の名のついた作品名を言っても「誰それ?」と言われてしまう事も少なくありませんので、本シリーズでは過去の様々な女性名の映画をご紹介しながら「女性が活躍する映画って、こんなに沢山あったんだ」と認知して頂ければと思っております😊
本作に登場する貴女の名前はメイ。
ポスターに描かれた女性の姿からは、ジェイソンやフレディに匹敵するような凶悪な怪物が登場する映画のように思われるかもしれませんが、本作に登場するメイは、人見知りな性格が災いして友人がひとりもいない寂しい女の子!
別ポスターはチャッキーやジグソウを
彷彿とさせますね…
そんなクラスに一人はいるような大人しい少女のメイは、他者に愛されようと努力して、次第に怪物のような存在となってゆくのです…
人形だけが友達だったメイに
一体何がおこったのでしょうか?
「キネマ旬報社」さんのデータベースによれば、本作の解説は以下の通り。
「尼僧の恋/マリアの涙」?
はい。
1994年に公開された「尼僧の恋/マリアの涙」は、当時それなりに話題となったセンセーショナルな作品!
DVD化希望作品のひとつ「尼僧の恋」!
尼僧の道歩んでいた少女が、恋心によって狂気に陥ってゆく姿を描いた「尼僧の恋」の主役マリアを演じたアンジェラ・ベティスは、その後「狂気の女を演じる女優」としてのイメージが定着してしまったのではないかと思います
皆様がご覧になる楽しみを奪わないよう、これ以上詳細を書く事は差し控えさせて頂きますが、本作は2001年に公開され、日本で大ヒット作となった「アメリ」の裏バージョンのような作品!
みんな大好き!愛され映画の「アメリ」。
「アメリ」の主人公のアメリ・ブーランも、誰とも話さない孤独な少女ですが、彼女にはスージーのような話し相手がおらず、自問自答する事によって「他者を幸せにするのは自分にとって嬉しい事」であり「他者を喜ばせるために、他者と会話する必要があるとは限らない」という結論に至り「人知れず他者を幸せにして、幸福感を感じる女性」へと成長してゆきます😊
けれどスージーと会話し続けていたメイは自問自答するのではなく、架空の他者と話し続ける事で、脳内の妄想を肥大化させ続けて行くのです…
既にスージーという友達がいるメイには
自問自答は不要です!
「見ててね。私彼と友達になるわ!」
そう。
自問自答は哲学に至り、自問しない妄想は誤った道に至る。
自分に都合のよい妄想を後押しするようなスージーの助言によって、メイは何の罪もないアダムや周囲の人々を地獄へ堕としてしまいますが、それによってメイが幸せになる事は何一つなかったのです…
当たり前の事ですが街ですれ違っても
アダムは振り返ってくれません。
けれどこれはメイにとって想定外の事態!
だからメイは作戦を変更!
こっそりアダムの飼犬の足を切り落ったら
彼が慌てて獣医を訪ねて来ました!
「やったわ作戦大成功よ~😆」
私見ですがそんな本作はキネマ旬報社さんの解説のように不器用に生きる孤独なヒロインが愛を求める感情に突き動かされて、狂気の行動へと走るさまを切なくもグロテスクな描写満載で綴った作品として観る事もできると同時に他者とのコミュニケーションが以前よりも少なくなってきている現代において、脳内他者と話し続けている人間によるモラルを超越したような行動の遠因について考える端緒となる作品としても観る事ができるのではないかと思うのですが、皆様はどう思われるでしょうか?
スージーは邪悪な人形ではなく
メイの架空の話し相手。
ですが自分では出来ない
背徳的な行為を勧めるスージーを
いつしかメイは自身の分身だと
認識していきます。
え?
元々自分の分身のスージーを
自分の分身だと理解したの?
いいえ。
メイはスージーと同じ容姿となり
やりたかった事を実行します。
メイは自分の脳内で想像した
スージーに取り込まれて
別人格になってしまったのです!
という訳で次回は
貴女(きみ)の名はヘレン
というテーマで
ヘレンに何が起こったのか?
という映画を解説してみたいと思いますのでどうぞよろしくお願いいたします😘
ではまた(*゜▽゜ノノ゛☆
★おまけ★
併せて観たい自問自答ができる女の子の映画
「アメリ」
もしメイが自問自答できれば
アメリの様になれたかも?
ご存知、オドレイ・トトゥの
伝説的ラブストーリーてある本作は
古びた緑と黄色の色彩で撮られた
孤独だった少女が
孤独でなくなっていく物語なのです😊