エロスの劇場 #⑩ 『アベラールとエロイーズ』 | 空閨残夢録

空閨残夢録

上層より下層へ 
中心より辺境へ 
表面より深淵ヘ 
デカダンよりデラシネの戯言

 


 ピエール・アベラール(1079~1142)は中世フランスの大学者で、パリ・ノートルダム大聖堂付属学校で神学と哲学の教師をしていた。アベラールは1117年、ノートルダム大聖堂参事会員フュルベールの姪エロイーズ(1101~64)の家庭教師となり、16歳の美少女エロイーズは、男ざかりの美男子である38歳のこの大学者にすっかり魅了され、二人はやがて恋におちる。

 そんな二人の恋愛関係はやがてエロイーズが妊娠したことにより暗転する。彼女をひそかにブルターニュの親類のところでお産させて、結婚を申し込んだアベラールに、意外にも、エロイーズは反対して、才能ある大学者は妻子にわずらわされずに学問を選択するようにと述べて、自分は日陰者でもかまわないと答えたという。

 しかし、エロイーズはそれでもよかったのだが、保護者である叔父のフュルベールが激怒して、アベラールに二人の男を派遣させて復讐を企てたのである。なんとその復讐とは去勢するという暴行事件に発展する。この事件はスキャンダルとなり、男性器官を失ったアベラールはサン・ドニ修道院の修道士となった。

 エロイーズは子供を預けてアルジャントゥイユ修道院の修道女となった。そして、エロイーズの二十年間に及ぶ、アベラールへの火のような恋文を書きつづけては送る日々が始まる。その愛の往復書簡は、あまりにも有名な伝説となる。


 「あなたにとって、《妻》という名がより神聖な、より名誉ある名に思われたとしても、わたくしにはいつも、あなたの《情婦》と名のることのほうが、ずっと嬉しく思われたのでございます。いえ、もしあなたさえお気を悪くなさなければ、いっそあなたの《娼婦》と名のりたいのです」


 アベラールは、燃えるような恋情に乱れたエロイーズを落ち着かせるために、精神的な愛の領域へ導くのだが、彼女は納得できずに恋心を一層につのらせるだけであった。


 「わたしが気に入られたいと思うのは、あなたにであって、神にではありません。わたくしを尼僧にしたのは、あなたのご命令であって、神への愛ではないのでございます」


 エロイーズは神への愛を説くアベラールに対して痛烈に反撥している。今では不具者で性的な激情を失ったアベラールは彼女をもてあましていた。

 この男とは名ばかりの恋人に宛てて、二十年間も燃えるような恋文を書きつづけたエロイーズの情熱を想うと、今では燠火となった我が胸底に明々と恋の焔がたちあがってきそうである。いずれにしても恋愛力を燃え尽きるまで持続させたその情熱と情動を讃えたいと思う。