久しぶりに、死を考えた。衝動的に考えることはあっても、こんなに冷静に考えたことは結構久しぶりかも。そうだ。とっても冷静なんだ、自分。周りの人が抱えている感情から、(無理やりにでも)全て切り離して自分を保とうとする。そうしないと、自分が崩れてしまう気がする。感情のスイッチを切って、何も感じなくする。とにかく、無表情で不感症に。

いつもはそれっぽいふりができるんだよ。いや、正確に言うなら、それっぽいふりというか、いわゆる「本当の自分」みたいなのがそこには見え隠れしているように思う。でも、結局うわべだけ。本当に深い部分で、自分はダメだ。うん、ダメなんだ。

相変わらず、誰からも連絡は来ない。ちょこちょこチェックしてしまう自分がいる。

でも、不思議と人と関わることは嫌いではない。もちろん、人見知りだし、初対面の人は苦手だし、先生もとっても苦手だし、話したくない人もいる。本来的に人は嫌いかもしれない。でも、人と関わることで、自分は救われている。ダメな自分もその中で覆い隠されているように思う。

ただ、しばしばその距離を間違える、というか、距離の取り方が下手だと思う。ちょうどいい距離っていうのが未だにわからないし、空気も読めないので、場の中でうまくたちまわるのはとても下手だと思う。いつもいいなと思うのは、一対一のコミュニケーション。その人のことを知るのは、とてもうれしいことなんだなーといつも思っている。最近はもう少し人数が多くても、場によってはとても楽しく感じることが多い。僕の場合、それは同じ学年、もしくはそれより下の人といる時で、上の人がいるとなぜか萎縮?してしまう。というか、距離の取り方がわからないんだよ。

高校時代の経験がダメだったのか。てか、ああいうコミュニケーションの取り方しかないと思っていたし、あれをしないといけないと思っていた。あれっていうのは、とにかく上の言うことは正しくて、自分はそれに従わなくてはならない。その人たちが面白いと言えばそれは面白いし、その人たちが正しいと言えば正しい。そんな中で生きてきた。
今考えると、なんてつまらない高校時代を送ってきたんだと思うが、当時はそれでいっぱいいっぱい。その時の名残が、今も自分に残っている。わかっているのに、体が動かない。

そういう状況に置かれ続けることで、周りともうまくいかなくなるし、結局孤立してしまう。本当に生き方が不器用なので、みんなみたいにうまくたちまわれないんだ。○○をやれってなれば、それしかできないし、あんまり「悪く」生きてこなかったから、遊びも知らない。で、たいして能力もない。うん、そりゃー仕方ない。

もういろんな状況に耐えられなくなったんだろうな。高校3年の秋に。自分のことも、まわりのことも。誰にもそんなこと相談できなかったし、相談するっていう選択肢があるなんて分からなかった。何か言えていれば、何かが変わったんだろうか。

でも、本当に本当にうれしかったのは、同窓会に行ったとき、最後に学校に行った日に、家まで電車で帰れなくて、友達に黙って(寝ていたので)電車を降りたことがあったんだけど、その同級生(つかさ)に、「ずっとあの時のことを心配していた。今日無事な姿が見れて良かった」って言ってくれて、うん、とてもうれしかった。とても恥ずかしかったけども。

なんだかとってもさびしいなあ。もうどうしようもなく。
誰よりもまず自分がしんどくて、でもそれが伝わらなくて(伝えられなくて)孤立しているように思う。
でも、本当はつながりを求めていて、何よりも誰かとつながっていたい気持ちは確かにある。ほらみろ、Facebookを開いて、まあまずないが、もしかしたら誰かからメッセージが舞い込むかもしれないと思っている(ここ数カ月くらい、要件以外のメッセージはないのだが)。この前送ったメールに、もしかしたら返信が来るのではないかとそわそわしている。そもそも、そんな返信が来るなんてまったく期待してもいないのに(あくまで表面上は。こころの底では返信を求めている)。
寂しい。だって誰に寂しいって伝えればいいのかわからないんだもの。
導入剤を飲んで、さっさと寝てしまおうと思ったのに。今日は早く終わった方がよかったんだ。
なのに寝れない。時々、寝る前に急に今後読みたい本をひたすら探し始めて、結局寝ようとした時に明日からのことを考えると、導入剤を飲んでいても目がさえまくっていることはあるが。そんな感覚。
いつも昼間、とっても眠たいのに。なんでこんな時だけ頭はさえているのでしょうか。
こんなにつらい夜なのに。

もう何もかも投げ出して、誰もいないところに行ってしまいたいとも思う。最初は威勢がいいが、どうしてもどうしても重みになってしまえば、放り投げてしまう悪い癖。でも、一人では耐えきれない。みんなみたいに強くはないのだ。
じゃあ、誰かに言えばいいじゃないかっていったって、結局誰も思い浮かばなかったんだもん。いや、正確にいえば、思い浮かぶ人はいても、その背景にあるいろいろを考えてしまうと、相談リストから外さざるを得なくなる。

前回のエントリーでは臨床心理学に興味を持つまでを簡単に整理してきた。
ここからはその後、どのようにして福祉分野にも興味が生まれたのかについて書いていきたいと思います。



直接的なきっかけは、自身の研究テーマを変えたことにあります。


なぜそれまでやっていたひきこもりについての研究から方向転換したのかというと、大きな理由としては研究の行き詰まりがあります。
加えて、自身の問題意識とのずれが大きくなってしまい、何となくやっていて苦しい状態に陥っていたことも一因です。



そこで、指導教官の教授の意見も参考にしつつ、現在の研究テーマとして、主に北海道のべてるの家が発祥であり、現在全国に広く広まっている当事者研究に着目しています。



当事者研究とは何かということについて、ざっくり説明するならば、精神疾患(主に統合失調症)を持つ当事者たちが、自身の持つ「生きづらさ」(苦労)に対して、同じような苦労を持つ仲間や専門家と協働しながら、自身の「生きづらさ」(苦労)に向き合う態度を作るものだと言えると思います(このあたりはまだ勉強不足なので、言葉足らずかもしれませんが…)。



この当事者研究が主に行われているのが(より明確に説明するなら、受け入れられているのが)、福祉の分野でした。東京にある当事者研究を行っている団体に何度か足を運ばせてもらったのですが、その会の運営を担っているのは精神保健福祉士や社会福祉士の方々でした。


当事者研究で行われている内容の魅力性の高さも相まって、福祉分野への興味がわいてきたのです。



こう見てくると、自分の研究に従って、自分の世界が広がってきており、それに付随して自身の将来についても選択肢が増えている感じをうけます。
これはよく言えば、選択肢が増えることで自分の将来についてより仔細に見通せるようになると言えますし、逆に言えば、それほど僕はこの社会について無知であったとも言えると思います。



ただ、結果として、今現在2つの選択肢(前のエントリ―で触れた臨床心理学と本エントリーで挙げた福祉分野)からの選択が目の前に迫っている状況だと言えます。