城田ロミオ×昆ジュリエットの初日。



再生する近未来都市、という設定のヴェローナ。二世議員らしい品の良さ・気の弱さをたたえるヴェローナ大公(中山)が、建設業者にわが街を紹介するという意表をつく幕開け。


モンタギュー・キャピュレット両家のならず者の若者たちを演じるダンサーたちの個性がそれぞれに素晴らしく、圧倒的だ。衣装は、モンタギュー家はブルーグレー調+モノトーン、キャピュレット家は赤+豹柄という意表をつくもの。



モンタギュー家の落ち着いた兄貴格ベンボーリオを浦井が手堅く歌声伸びやかに、華やかな遊び人のマキューシオを、元ジャニーズ・劇団四季という異色の経歴をもつ良知がその実力・特異な個性を武器に存分に発揮し演じる。ただ、衣装の問題だとは思うが、色調がダンサーたちと一緒なので、ベンボーリオ・マキューシオらのプリンシパルが群集に埋没してみえるのが勿体ない。むろん、彼ら(とくに良知)が、ダンサーたちに遜色なく踊れているから、というのもあるのだろうが…衣装や照明などの改善は必要かと思う。



キャピュレットのリーダー・ティボルトに平方。まるで、宝塚雪組版の同役を演じた緒月遠麻のような、美しく堂々とした容姿。ただ、「法律なんか気にしない」無頼派というよりは、一族の掟に葛藤をいだく、繊細で鬱屈した青年に見え、少々役のうま味を生かしきれていないように見える。歌・演技は及第点なので、今後の見せ方に期待。



キャピュレット夫人の涼風は、その実力を生かした、毒々しいまでの役作り。ジュリエットに女として嫉妬し、ともに涙の谷に生きるのだと呪いをかけるソロは圧巻。彼女のこぶしを利かせた独特の歌唱法が、ジプシー風の楽曲に素晴らしくマッチする。


キャピュレット卿に、実力者・石川禅。黒い長髪をひとつに束ね、体格を生かしたフロックコート姿はまるでイタリア・マフィアのような風格。確かな存在感・人間臭さで舞台を支える。



モンタギュー夫人に大鳥れい。かつて、エリザベート皇后役で見せた美しさは変わらず、心配症らしい母親のたおやかさに満ちている。これも非常に見栄えのよいモンタギュー卿のひのあらたとともに、美しく優しい一人息子・ロミオを庇護し慈しむ家族愛が、複雑な家庭環境をもつキャピュレット家と好対照である。



携帯電話やフェイスブックなど、現代的ツールが演出に組み込まれ、笑いを誘う。浦井のベンボーリオがロミオを追い回すコミカルな場面転換ののち、満を持して主役の登場だ。


女にもてるが遊びには興味のない、繊細なロミオを、その素晴らしい容姿と甘く繊細な歌声の城田が演じる。団結力あるモンタギューチームとときに行動をともにし、ときに逸脱する。長身ともって生まれた華やかさゆえの存在感は圧倒的で、どのような場面においてもその一挙手一投足に目をひきつけられる。主役しか演じることのできない外見と身のこなしをもった城田のロミオは、非常に見ごたえがある。


外見の華やかさとはうらはらに、その役作りは非常に繊細だ。争いやからかいを好まず、平和の静かさやロマンティックな思索を愛する。両親の慈愛や、きょうだい同然の仲間達の友情に守られた心優しい青年像であり、それが破格の長身という見た目とのギャップを生み役に深みを与えている。



そのロミオと恋に落ちる16歳の少女ジュリエットを、新人・昆夏美が好演。まさに天使のような歌声は高音に伸びがあり、声量も豊かでプレスギュルビックの難曲を表情豊かに歌いこなす。メジャー作品デビューとは思えない巧者である。小柄で華奢そのものの少女らしい容姿だが、表情に力があり、苦境に陥ってもなお強さを発揮するジュリエットを表現している。


このロミオとジュリエットが出会うバル(仮面舞踏会)のシーンは、圧巻である。ダンサーたちが遺憾なく個性を発揮し、キャピュレット家の複雑な家庭事情がサブストーリー的に展開するなか、岡田演じるKY金持ち男パリスがコミカルな動きで空気を和らげる。そこに、薔薇模様のフロックコートをこれ以上なく着こなしたロミオが登場。遠目で、かつ仮面越しに見ても華奢で可憐な、孤独と希望をその細い体いっぱいに抱えたジュリエットとすれ違い、みつめあい、恋に落ちる。この場面の演出・演技は見事の一言だ。「神さまから約束された出会い」を喜び歌う恋人たちの姿には、非常に説得力がある。この場面が成功するか否かで、後半の物語のリアルさが変わるといっていい。その意味で、ここまで自然に、命を賭けた恋を見せる役者の実力には感服する。



つづく名場面バルコニーでのデュエット、プロポーズも自然であり、この二人がであってすぐに結婚に至る飛躍が必然のように観客に思わせるに十分である。繊細なロミオと家族制度のプレッシャーにより崖っぷちに立たされたジュリエットとの身長差がかえってドラマティックな効果を生んでいておもしろい。別れ際、バルコニー越しのキスも美しく、「恋の翼に乗ってすべてを飛び越え」る喜びをよく表している。



安崎のロレンス神父は品よくユーモラス。司教区担当者として、おそらくロミオたちを小さいころから導いてきたのだろう。神に仕え、憂いと慈愛をもって両家を見てきた中立者の立場を情感豊かに演じる。ヴェローナ繁華街での「きれいは汚い」の場面では、乳母の未来が新境地とも言えるよく太って陽気な中年女性を好演。その後のソロは言わずもがなの素晴らしさだ。未来は両幕通じて、ジュリエットを心から愛するが、しかし精神的に理想を追わない単純で善良な女性像をよく体現している。


秘密の結婚式のシーンでは、中島演じる死が、若い二人にしのびよる。名曲「エメ」が歌われる場面を、甘美なものではなく、あえて不吉に仕立てた演出家の発想の独自性もおもしろいが、もう少し幸福の絶頂にいる恋人たちの姿も見たかったように思う。

(ここまでで一幕)



2幕は死の踊りののち、ヴェローナ繁華街のシーンへ。ロミオがジュリエットとの結婚により仲間を裏切ったと責められ、またティボルトが最愛の人ジュリエットを敵に取られたと逆上するシーンがテンポよく進む。


ティボルトとマキューシオの決闘シーンは本作品の最高の見せ場のひとつだ。役の年齢に近い若いキャストたちの乱闘ぶりは見ごたえがあり、ダンサーたちの芝居経験の少なさがおもしろい効果を生み、まるで本当のケンカを見ているような錯覚に陥る。ただ、この決闘に至るまでにマグマのように煮えたぎるティボルトの感情が見えなかったのは物足りなく思う。鬱屈していて繊細で大人からのプレッシャーに押しつぶされそうなティボルトだが、同時に人を殺せるくらいに激昂する勢いも表現に欲しいところである。



親友マキューシオを殺され、激情しティボルトを刺し殺すロミオの表現力は見事の一言だ。燃え滾る怒りが、その後姿によく出ている。我を失うほどの怒り、そして自分のしたことへの気づき、狼狽、その場からの逃亡、心身喪失。この短時間にロミオの身の上に起きる目まぐるしい感情の変化を、緻密な演技計算にて城田はなめらかに表現する。母の声に呆然とするロミオ。贖いを迫られどうすることもできずに座り込むロミオ。追放を申し渡され、真に自分の行為が何を意味するかを知り、かねてから悩まされてきた絶望の影を悟るロミオ。


こうして物語は取り返しのつかない悲劇へと、ノンストップで転がり落ちていく。


特筆すべきは、恋人たちの別れの朝の自然さ。歌唱力などの確かな実力が、若い二人の後朝の別れのつらさを彩る。このシーンは、熟練した俳優では観ることのできないリアルな若者たちの美しさに満ちており、その儚さと危うさにはっとさせられる。



ロミオに毒薬を売る薬売りが、ヤクの売人であるバーテンダー(実は死)である点も新鮮。このバーでチンピラにからまれたロミオが、唯一の通信手段である携帯電話を失うのも納得の流れである。



携帯電話やPCなど、現代的な小道具が多くこの作品にでてくる点は、おそらく賛否両論あるであろう。私自身は、「なるほどこう来たか!」と驚き楽しめることが多かったが、戸惑う観客もいたのではないかと思う。

ただ、ぜひこれらの演出で改めていただきたい点が3点ある。



まず、「どうやって伝えよう」のシーンでロミオに電話するベンボーリオの受話器に響く「この電話は電源が入っていないため」のアナウンス。一幕での携帯呼び出しアナウンスネタは、若々しい彼らの生態を表現するのにぴったりで、また笑いも誘うが、劇中、ベンボーリオが傍観者としての自分の愚かさと責任を歌うこのシーンにおいては、この演出はせっかく浦井が盛り上げた悲しみへの高まりを、(天丼効果による)笑いが起こるために分断させる恐れがある。アナウンスは不要で、携帯に耳を押し当てたベンボーリオが、がっかりしたように首を振る、などで十分ではないだろうか。



次に、マントヴァにやってきたロミオがカート型トランクを転がしている点にも違和感を覚える。ここは、少々古典的でもずた袋スタイルのサックでよいのではないか。孤独を抱えるロミオには、体に密着しやすいサックのほうが似つかわしい。



最後に、一番残念な点であったのが、物語の核心となるロレンス神父の計画を、メールで知らせようとした点である。メールが悪いわけではないのだが、ジュリエットが死んだと思い込んだロミオが服毒死し、その遺体をみたジュリエットが「自分を迎えに来てくれたのに、疲れて眠り込んでいる」と再会に有頂天になった刹那、すでにその恋人は死んでいることに気づくという本作品最大に張り詰めたシーンにおいて「神父様のメールをみていないの!?」では、観客は脱力してしまう。せっかく、芝居巧者歌巧者の主役コンビが、カタストロフに向けてテンションを高めているときにこの台詞では台無しだ。涙もひっこんでしまう。通信手段はどうであれ、古典的名作の香りを感じられるような表現を望む。宝塚版は「神父様からの手紙は読んでいないの?」であったが、せめて、もしくは「神父様からの連絡はなかったの(連絡を読んでいないの)?」が妥当な表現であろう。もしくは、ただ単に「どうしてこんなことになったの!?」と不条理を嘆くのでも十分ではないだろうか。



以上3点については、ぜひ改善を要望したい。



いろいろ書いたが、「大人の世界」と「子どもの世界」の対立構造を見事なまでに痛々しく描いたACT版ロミオ&ジュリエットは大成功ではないだろうか。若いキャストのなかにはいまだ十分に役への掘り下げ、または見せ方を習熟していない点も見受けられるが、そこはリアルな若者としての弱さ・渇望・やりきれなさに満ちており価値も高い。


世界中で上演されている本作品、とくに宝塚版で大成功を収めた作品に都会的かつ若々しく洗練された感覚を持ち込み、より一層リアルな若者たちの生を描こうとする小池先生の発想には脱帽である。



しかし、やはり前述の3点だけは改善してください。宜しくお願いします。笑いが起こるかもと危惧していては、安心して物語に感情移入できなくなりますから…。























 ルキノ・ビスコンティの傑作。同監督のいわゆる「ドイツ三部作」のひとつ(他二作品は「ベニスに死す」「ルードヴィヒ」)。レアリスモを追求したビスコンティの歴史ドラマのなかでも、現在に近い時代設定である。1933年、ナチス台頭下のドイツ。鉄鋼財閥エッセンベック家の斜陽と没落を、名匠ビスコンティお得意の家族劇の手法で丹念に描出しつくしす。

 エッセンベック一族の長、老ヨアヒムの誕生日パーティーの日、国会議事堂放火事件のニュースが入る。パーティーに出席していたナチス親衛隊のアッシェンバッハはその知らせにほくそ笑む。その夜、屋敷内で殺人事件が起こる。被害者は老ヨアヒム。財閥の若き重役ヘルベルトに殺人の嫌疑がかけられる。逃亡するヘルベルト。そしてエッセンベック財閥の後継者である若男爵マルティンの口から、すべての裁量を技術者上がりの平民フリードリヒに委譲することが言い渡される。憤慨する副社長コンスタンティン、胸をなでおろすマルティンの実母である未亡人ゾフィ。ゾフィはフリードリヒと愛人関係にある・・・ 


 大学時代以来の再見だが、改めて、その作品の圧倒的な完成度に叩きのめされた。この作品に関しては、古今の評論家・作家が多くの文章をものしているが、以下私見を中心に、作品の見所について述べてみたい。

 作品は、いくつかの柱に沿って味わうことができる。

①名門鉄鋼財閥の斜陽と没落というドラマ

②老ヨアヒムの死にはじまるサスペンス劇

③家族による室内劇

 

そして、以下の見逃せない魅力に溢れている。

④インセストによる乗り越え点の提示

⑤悪魔的な第三者の提示(悪徳と美の稜線)

⑥話型を再構築した結果の圧倒的な広がり

⑦ドイツ的ロマン主義(ワーグナー)と都市型デカダンス(マレーネ・ディードリッヒ)

 以下に細かく見てみる。

①名門鉄鋼財閥の斜陽と没落というドラマ

鉄鋼で財をなし名を残した一族は本邦にも多い。鉄鋼史とエネルギー史を概観すれば近代史はつかめるというのが、私の持論でもある。いうなれば、この作品はドイツの鉄鋼業と軍需との蜜月期の「裏エピソード」としての魅力がある。山崎豊子の名作「華麗なる一族」のドイツ版、ともいえるかもしれない(もしくは山崎氏も影響を受けたか?)。

②サスペンス

老ヨアヒムの銃殺に始まり、この作品では登場人物の不可解な死が続く。政治的な殺人と、情動的な殺人が続く。もしくは、それらが巧妙に絡み合っており、真犯人が非常にわかりづらく、断定しにくい。殺人の動機も断定しにくい。もしくは、断定できすぎる。その両面性が、サスペンスとしての魅力を増している。

③家族による室内劇

ビスコンティが得意とする家族間の心理描写は、さすがにバランスが取れていて素晴らしい。登場人物の心理に肉迫しながらも、映像に映し出すにあたっては誰に近づきすぎることなく、均一の距離感を保っている点が、やはり素晴らしい。家族のなかに、唯一徹頭徹尾のよそ者であるアッシェンバッハを組み入れたところがポイントだろう。よそ者の存在により、さらに家族間の感情のキメラ的相互支配が際立つ。

④インセストによる乗り越え点の提示

そして、③を乗り越える手立てとしてのインセストが提示されている。おそらくこのシーンが本作品のハイライトのひとつでもあるが、きわめて淡々と場面がすすむので、その乗り越えが歪んだ方向に、とはいえ成功したらしいことがわかる。

かつて、アナイス・ニンのエピソードを読んだ際、自己の乗り越え点としてのインセストが世の中に存在することを知り戦慄した。ただし、本作品を見るかぎり、タブーたらしめるものは一体何か、ということを疑えば、存外にインセストさえ自然なものに思えてくる。ここが、鑑賞者に混乱をもたらす。

⑤悪魔的な第三者の提示(悪徳と美の稜線)

 ④の、倫理ある混乱をもたらすものが「悪」だと定義すると、作品における悪魔的な存在はもちろん、ヘルムート・バーガー演じるマルティンであろう。甲高い声に神経質そうな身のこなし、そしてどこまでも澄んだ蒼い眸を持つ圧倒的な美貌の青年である。本作品では、マクベス夫妻ともいうべきフリードリヒとゾフィを滅ぼす、きわめて悪魔的(メフィスト的)存在としての美がある。Jeanはそれを「悪徳と美の稜線を辿るもの」と定義していて、おもしろかった。ただし、私はマルティンをそこまで至高のものとは捉えず、恐るべきこどもたちの1つのタイプと捉えたい。彼の美しさは、完全なものから、というより不完全の余白から湧き上がるものだと思う。

 対して、この悪魔に完全に対峙する美しきものとして配されるのが、シャーロット・ランプリング演じるエリーザベトであろう。このジュスティーヌ(マルキ・ド・サド「美徳の不幸」)のような愛情深い美しい女性は、強制収容所での無惨な死を迎えるように仕向けられる。まさに、美の他意なき消費である。ランプリングが、ベルニーニの彫刻もかくやと思うばかりの美しさである。ビスコンティがほれ込んだ、ベール越しの眼差しは人を思考停止に追いやるほどの美しさ。

⑥話型を再構築した結果の圧倒的な広がり

まず、この作品はシェイクスピアの「マクベス」を現代でやりたい、という監督の意図があったそうである。しかしマクベス話型で脚本を作ったところで行き詰まり、ドストエフスキー「悪霊」の展開を採用に再構築した結果、本作品に至ったという説がある。話型の云々については論じられるべきものはあると思うが、私自身は、ビスコンティの「物語を解体しつつそれ以上のものに再構成する」力量こそが、彼の作品では特筆すべきところと考える(ちなみに、解体しっぱなしの勇気を持つ監督は、アラン・レネだと思う)。ある場面に一見不必要と思われるほどの長さを裂くこと、また無関係と思わせるほどの些細なエピソードを挿入することが、この監督にはままある(私は不必要とはまったく思わないが、映画館の方針によっては短く編集されることがままある。芸術に対しておそれを知らない行為と思うが)。しかし、その一見話型を破壊しかねない場面こそが、作品が圧倒的な普遍的な広がりを見せる「瞬間」が内包されていると理解したい。

 本作品でいえば、マルティンと屋根裏部屋の貧しい少女とのエピソード、山小屋での突撃隊の延々と続く乱痴気騒ぎ、か。とくに乱痴気騒ぎのシーンは、「山猫」で同監督が見せた延々1時間が続くシチリア貴族の舞踏会のシークエンスに連なる名場面である。乱痴気騒ぎを廊下(「山猫」では、控え室)から表現する余白の使い方も、見事だ。

⑦ドイツ的ロマン主義(ワーグナー)と都市型デカダンス(マレーネ・ディードリッヒ)

⑥でも述べた山小屋での乱痴気騒ぎも終わりに近づいた早朝、湖畔にたたずんで伸びをする美貌の突撃隊青年のすぐとなりで、いかにもだらしない様子の中年隊員が、ピアノを弾き、ワーグナーの「トリスタンとイズー」を朗々と歌う。なぜだか、鳥肌がたった。「ベニスに死す」ではマーラーを、「ルードヴィヒ」ではやはりワーグナーを採用したビスコンティの、ドイツ・ロマン主義への言い尽くせない敬意と憧憬が、あるからなのか。この複雑怪奇な映画の本質に、彼が愛したロマン主義が通底していると思ったからなのか。

 そしてやはり外せないものは、巨匠が描く「デカダンス」であろう。マレーネ・ディードリッヒの扮装(まあ、女装)をしたマルティンが「Einen mann,einen richitigen man!」と歌うシーンは、わざわざ私がいうべきことでもないのだが、映画史上に残る名場面だ。このシーンこそが、この作品を「映画」にしている。ベルリンに出掛け、ブランデンブルク門が想像を超えた巨大さだったりする、そんなうっかり驚愕のベルリン的退廃、そんなわかりやすさこそが、この映画を明解に映画たらしめていると、心から思う。




 私もあと半年で30歳になります。

4つ離れた兄が30歳になったとき、「お兄もついに30だ。苦難に満ちた20代だったゼ」というメールを受け取ったことがありました。疾風怒涛(というかむしろ凪すぎ)の20代をサバイブした兄にはよく似合う言葉です。そして私自身はというと、同メールの結びの言葉に、いまさらながらきわめて重く共感するのでした「お兄はアンチ・エイジングをはじめることにした。美容は大事だからな。毎日コントレックスを飲んでるよ・・」。

 兄が今でもコントレックス美容を続けているかどうかは知ったことではないが、なんとなく30過ぎの美容というのは普遍的重大問題のような気がする(ということを美容ライターをしている先輩に訊くと「いや、むしろ30代のほうが心身ともに安定するから案外いける!」とのことだったが)。


 ルイ・マルは私が思春期のころから大好きな映画作家ですが、最近ついに「ビバ!マリア」(1965年作品)を入手しました。アンニュイな影と気品のある大女優ジャンヌ・モローと、パリ・モードが世界に誇るブロンド・コケットリーの金字塔ブリジット・バルドーの幻の共演であります。

 言うなれば「地下鉄のザジ」の大人版、と申しましょうか。恋あり革命あり冒険ありお色気あり、のおおっぴらな娯楽ムービーです、たぶん。ところで「たぶん」というのは、あまりに映像的突っ込みどころが多すぎて娯楽性に集中できなかったからです。そういえば「地下鉄のザジ」のときも、「これは・・・娯楽映画なんだよね?プロパガンダ映画ではないわな?」とシーンが展開するごとに脳みそに確認を取りながら観たので、思考が散漫になってしまった覚えが――思想が美意識の前に立つ、悪い癖です。


バルドーはいわずもがなの大好きな女優の一人ですが(ルイ・マルの短編「ウィリアム・ウィルソン」での黒髪の女賭博師なんて、鳥肌の立つような美しさですよ!)、モローにも特別な思い入れがあります。

 かつて鑑賞したモローの代表作「恋人たち」が、本当に、本当に、素晴らしかった。ブラームスの弦楽六重奏に乗せて漂う夜のボートでの逢引のシークエンスに「ああ!これこそが映画というものだ」、厚く化粧を乗せた頬に恋人の接吻を受けるモローの美しい表情に「ああ!これこそが女優というものだ」とひたすら感じ入った、つまりは私の映画鑑賞者としての転換点だったのです。そしてこれもルイ・マル作品でしたね。

 

 さて、「ビバ!マリア」、そんなお二人の共演作なのですから、楽しくないはずはないのですが、私がうっかり気になってしまったのは女優の「実年齢と役どころ」というテーマです。鑑賞中Jeanが「このモロー、・・・ものすごく老けていやしまいか」としきりに言うのでなんとなく嫌な気分になり「いやいや、モローは顔の下半分だけ老け顔なのだよ。その証拠に上半分は若い!」とやりこめたのですが、よくよく調べると、このときのモローは37歳だったのです!(ちなみにバルドーは31歳)

お二人とも素晴らしくかわいらしいのですが、な、37歳と31歳でいわゆる「おきゃんな女の子」の役をやってのけるあたり、フランス万歳!(*オスカルの最期ではなくて)。

30歳をすぎても、黒いリボンでポニーテールにしてもよろしいのですね、大人ぶらなくてもよろしいのですね、マシンガンを撃ちまくってもいいのですね・・・とても安堵いたしました。


そもそも私の理想の日本女性は35歳過ぎで大ブレイクした壇れいさんなので、とどのつまりは三十路恐るるに足らず、なのかもしれません。とにもかくにも、せめて実年齢に即した精神年齢の持ち主でありたい、なんつて(美容の話はどこへいった!)。

 

 巨匠エリック・ロメールの2002年作品。フランス大革命時代の、パリにおける英国女性グレースと王弟オルレアン公の親交・悲劇を描いたコスチューム劇である。

  背景の絵画に人物を溶け込ませる実験的な手法を取っている。老齢に達したロメールが、それでも画期的な映画のフレーム・ワークを探求しつづけるその心意気にまず脱帽だ。

 脚本よし、演出より、役者よし。大革命の波乱のなかにも、ロメールらしいユーモアも忘れない。


 フランス大革命に材を取った作品は多々あるが、本作には、当事者たる王も王妃も、会話のなかで語られるだけで、主観はあくまでも革命をマージナルな位置から眺める英国女性グレースにある。彼女はシトワイエンヌ(革命時のパリ市民に対する敬称)でもなく、王の犬でもない。しかしその距離感が、妙に革命の血なまぐささを際立たせていて、リアリティがある。真に老ロメールが、丁寧に吟味し、咀嚼し構築したテーマが「フランス大革命をマージナルサイドから捉える」だったということに感動を覚える。かつてのヌーベル・バーグの若き覇者の集大成がおそらくこの作品であることに、映画ファンとしていいしれない喜びさえ感じる。


 ロメール作品の最大の魅力、それは、人間を「人間らしい限界」を持ったものとして、描いていることだと思う。完璧な人間も神のような人間もそこにはいない。だが、そこにこそ彼の作品への信頼、人生への信頼があるように思う。


 最新作「我が至上の愛 アストレとセラドン」も楽しみだ。ロメール翁には長生きしていただきたい!


http://www.alcine-terran.com/wagaai/  

 秋にテオ・アンゲロプロス監督の「シテール島への船出」を鑑賞した。とても美しく凄まじく完成された作品で、「永遠に若い魂をもった老夫婦の死に接した愛」という主題も稀有だし、もちろんあのカメラ長回しの手法も空気感も本当に素晴らしかった。

 ただ、私は決定的にこの監督とは肌が合わないというかところがあるというか、ある強烈なショックさを感じた。

 原因は、何かというと、登場人物のセックスに関するシーンの撮り方なんですよね・・(なーんだ)。セックスをどうでもいいような瑣末な(愛もへったくれもなく、さりとて暴力でもない、つまりそんなに意味もない・・・まあ「魂が浮遊する難民の唯一のよりどころは肉体だけ」という意味なのでしょうけれど)事象として扱って、観客にショックを与えてしまうあたり、どうにもこうにも馴染まない。難しいところだ。うーん。やっぱり馴染まない。


 気を取り直して。

巨匠でいわゆる「濡れ場」を苦手にする監督、といえば私の頭にはフェリーニがすぐに思い浮かぶ(トリュフォーも思い浮かぶけれど、彼の場合はそもそも感情装置が最大公約数の一般人とおそろしくかけ離れているような気がするので、この際無視)。

私はエロス表現のアプローチという意味でも、フェリーニが大好きなのです。フェリーニが「濡れ場」を撮れないからといってエロスを介さないわけではなく、むしろエロスへの尽きることのない執拗なまでの憧憬と恐怖とを持っている。苦手、なのではなくて、エロスは情感として滲出させ、笑いにまで昇華させるよ、という心意気(でありコンプレックス)がある。そういうところに非常な親和性を感じる。なんせ私は「ぶっちゃけエロスは笑い!」と断言した丹尾先生(美術史)門下生だからだ(?)。

 フェリーニ作品に頻出するイタリアの地母のような巨大なマンマ、あれは本当にすごいアイコン・オブ・エロスです。注目に値します。

 そして、フェリーニ作品でとくに「このエロスは!」と思ったものは以下の3本であります。

「女の都」
 中年となった色男マルチェロ・マストロヤンニがこれでもか!これでもか!というくらい美女に痛めつけられ続ける作品。円を描き続けて途切れることのないローラースケートの風景はまさに悪夢。中年の危機というテーマでは、同監督の「魂のジュリエッタ」(ジュリエッタ・マッシナー主演)の男性版とでもいうべきか。同じ主題でも、男女で見えているもの(エロス)が全く異なるところもおもしろい。レビューの案内人が、「爺さん」3人組というのも秀逸。好々爺という言葉が思い浮かんだ(笑)。


「カサノバ」
 まったくエロティックでないカサノバ作品。名作。ファリック・シンボルとしての「黄金の鳥のオブジェ」が、まったくもって素晴らしい。これが繰り返し登場する。「天丼」の美学である。散々笑わせてくれたあとで、娼婦人形(ダッチワイフみたいなものか)とひたすらに手を取って踊るカサノバの姿に芸術家の老醜・そして孤独を鮮やかに描き出す。このエロス利用の逆転劇こそ、フェリーニの面目躍如。

「ローマ」

 くだんの巨大なマンマが登場する。おそらく監督自身の幼少期の記憶による。「8 1/2」にも、超え太った色女が海岸で妖しく踊り、少年を釘付けにする素晴らしいシーンがあった。いま書いていて思ったが、「超え太った色女」ってとっても素敵な概念ですね。少年を誘惑するのは、「イタリアの宝石」モニカ・ベルッチ以外もできるのですね。これは朗報です。

 以前から観たい観たいと思っていた「Hiroshima mon amour」をついに観る。アラン・レネの作品をスクリーンで観られるなんて、なんて運がいいのだろう。



 映画を鑑賞したあと、いままでに観た映画ショッキング5本の指というのものを考えていた。

 まず、イングマル・ベルイマン「処女の泉」は外せない。これは圧倒的。この90分で人生観が変わった。次に、今村昌平監督「楢山節考」か。これも怖かった。インパクトでいえばシュレンドルフ「ブリキの太鼓」、ルルーシュ「愛と哀しみのボレロ」か。パゾリーニの「奇跡の丘」は以前も日記に書いたが、私の信仰のベースでもある。無神論者の作る極めて崇高な宗教作品。

 トリュフォーの一連の作品は、作り手のあまりの客観性にいつもいつも(わかってても)度肝を抜かれる。毎度毎度鳥肌が立つ。この人と自分とはまるで違うということにショックを覚える。




 ショッキングにも程度というか性質があって、デビット・リンチの「エレファントマン」は、映画大好き少女だった私を一時映画から離れさせるくらいの恐怖があった、が、後にこれはリンチ監督が過剰に怖く作りすぎたのではないかという疑惑が自分の中で起こり(戯曲のほうが素晴らしい)、ショッキング・リストから外れた。

 また、清順やケン・ラッセルやポール・シュレイダー、ホドロフスキーの作品はある意味カルトかも知れないが、私にとってはちょうど「気持ちいい」刺激の知覚に入ってくるので、ショッキングでもなかったりする。ショックを楽しめるというか、そんな「快」だ。




 もろもろの意味をこめて、「Hiroshima mon amour」はショックだった。久しぶりに、言葉を失った。息をするのも忘れスクリーンに釘付けになった。すべての瞬間瞬間のコマ割り・音楽・セリフをも逃したくなかった。アラン・レネ―この静謐、この猥雑、この喧騒、この混沌とした不完全。

 この監督の「去年マリエンバートで」を観たのはもう10年近くも前だが、その際にも感じた収まりの悪さ、その正体(いわば「作品の帰着としての不完全さをもおそれない探求」もしくは「投げかけることに第一の意義をおく創造性」?)をいまは認知しうる自分に酔いつつ(陳腐な表現しかできないけれど)まさに全身映画を観るために捧げるという稀有な体験をした。


 ヒロシマが国際的平和都市へと、「歪んだ」「それ自体が意図しない」ものへ変貌を遂げている時を捉えている。丹下健三の傑作・平和記念資料館の威容がレネのモノトーンに美しい。ムリヤリにひらかれた都市の茫然としたさま。突如としてすべてを失い、そして再生させられる。ヒロシマという世界が、女主人公の在りようを拡大したものとして表現される。

 女主人公の髪の毛の「喪失→再生」寓意(被爆女性の心理的恐怖との通底する)、「心無き」第三者による圧倒的暴力、その視線の冷たさ(冷たさ、というは主観的なもの―感じ方だが、それがレネの映像で撮られた際には絶対的な冷たさに変質する)、無理解のなかでも起こる愛着(一方通行の言葉の掛け合いの中の同情)、個人のなかで塗り替えの作業を続けられる記憶のおぼろな輪郭。そしてきわめて主観的な物語展開。


 現在形で語られる記憶。記憶を共有することへの優越。―この作品のとくにおもしろいところは、女主人公の遠い忘れがたい過去が、常に執拗に現在形で語られるところにある。  

 それが観客の何某かを呼び起こすかは、評論家でもない私には説明できない。ただ、感想をつれづれに語りあったツレが「どうしてもここがよくわからなかった」と言ったとき、私が「実は彼女の過去を語るフランス語の時制はすべて『現在形』だった」と言うと彼は「ああ!」と叫び何かを掴んだようだった。

 映画の楽しみは理解することとイコールではないが、その何かを掴みたくなる、そんな欲求を掻き立てられもするレネの快作。59年という年にこのような構想をし得たレネの集中力を思う。レネの前にレネなし。


 音楽もいい。役者の声もいい。温度・手触りもいい。存在自体はショッキングだけれども、そういう意味では端正な作品だ。


【リジューによる補足】

登場人物の無理解のままに世界がすすんでいくショッキングさで言えば、ベルイマンの「冬の光」や「鏡の中にあるごとく」ではないかというJeanの意見に賛同します。さすが「人間の心の冬をみつめる人」・・寒い。

 そうだ!ベルイマン「冬の光」と本作品との共通する恐怖体験というのは、「核爆弾から遠く離れていること」でしょうね。
 作中、女主人公による「ヒロシマによって、今後の人類の恐怖の質がまるで変わる」というようなセリフがあって、これはまさに「冬の光」で中国の核武装が恐ろしくてノイローゼになって自殺してしまう登場人物のエピソードに通じます。

 となるとアントニーニの「太陽はひとりぼっち」でさんざんモンタージュされるきのこ雲の映像も、「(いわゆる)現代の相互無理解のなかの寂しさと恐怖」の象徴なんではなかろうか、と。

 こうなると映画史における「きのこ雲ムーブメント」というのはエポック・メイキングなものなのですね・・(一人で納得)

「きのこ雲から遠く離れている」ことと、「きのこ雲にきわめて近い」メンタリティを持つ国民(そして世代)、というのはどうしたって認知に大きな隔たりがあるのでしょう。
 時節柄「アトミック・カフェ」も観ましたが、こちらは「きのこ雲から遠く離れている国民性」を知るに興味深いものでした。

Jeanによる補足】

 アラン・レネの作品を観て感じたのは、1950年代後半という時代に、世界が抱えてしまった「過去と未来への憂鬱」についてでした。
 大戦は終わったけれども、信じられない破壊力をもつ核爆弾ができてしまったこと。その核爆弾が実験を繰り返すたびにさらに強力になっていくこと。そして、冷戦が深刻化し、世界が西か東かという究極の選択を迫られる時代になっていくこと。

 2回の世界大戦を通して、人類は行くところまで行ってしまったという感覚がリアルなものとして、当時の人の中には生きていたと私は確信しています。あの戦争によって、人権だの、尊厳だのという甘ったるい概念はことごとく粉微塵に砕かれてしまった。それは当時を生きる人々に通底する絶望であり、挫折であり、傷であったに違いありません。

 先の大戦では、押してはいけないスイッチが何度も押されてしまったのです。  
 この時代は、過去を振り返れば強大な暴力があり、未来を見つめるとその予兆と不安があるという時代だったのだと思います。

 「Hiroshima mon amour」は、一面としてはメロドラマ的な体裁をとっており、それゆえに邦題は「二十四時間の情事」などという残念なタイトルが付けられてしまったわけですが、しかし、そこにあるテーマは20世紀が背負ってしまった「罪」と、20世紀が引きずっていくであろう「不安」に、遺された者たちがどう立ち向かっていくべきかという、時代を生きる人々の「存在への根本的な問い」であったと思うのです。

 リジューから、過去の体験がすべて「現在形」で語られていたという話を聞いたとき、私は思わず膝を打ちました。

 あらゆる傷について、あらゆるトラウマについて、あらゆる被害について、私たちはそのことをきれいさっぱりと過去に葬り去ることはできません。それらは実際に事件が起きてから何年という時が過ぎ去ろうとも、当事者にとっては「現在の問題」として想起され、「現在の時制」で語られる種類のものなのです。

 映画はフランスと日本の男女が互いの名前を明かすところで終わります。その姿は、互いの「現在」を互いの手元に置き続けることを感受するという宣言にも読み取れました。

 「Hiroshima mon amour」は、そのような時代に生きた人々の力強い宣言として、私の心に刻まれました。

【兄貴による補足】
 フランクルが「夜と霧」の中で一つの暴力によって世界への信頼を失うと書いていたと思うけど、まさしく癒えない消せない傷として刻まれる暴力。戦争とは超暴力というか暴力の極みだね。
 戦争をリアルに知らない者と体験者との溝は、どれだけの想像力をもってしてもわかちあうことのできないことのようにも思います。

そしてその溝こそが未来への不安にも感じるし、伝えなければならない伝えきれない悲劇のようにも思います。


 悲劇をリアルに知る人達が、暴力が生むものがいかに強烈で広く深い傷になるかを証明することで人生をポジティブなものに変えることができたとしたら、およそ最悪なはずの十字架をシンボルマークにまでできる気がします☆


【リジューによる補足】
 もう一つ時制の話でいくと、冒頭のシーンでの「君はヒロシマで何も見なかった」云々は、すべて「複合過去」です。つまりはもう終わったことを語る過去形。


 本作品のきわめて重要なファクター、そしてヌーベルバーグにおける不安のムードはJeanの考察に全面的に譲りますが、私はそれでもアラン・レネ監督の制作態度の「不完全へ帰着することへの創造性」という点も、ぜひ味わってほしいと思います~

 楽しみで楽しみで楽しみで、胸が張り裂けそうになる―そんな映画がある。席に座って、飲み物を肘掛において、そしてスクリーンにタイトルが映し出されるのを凝視する。血流が逆流するようなワクワク感。果たして、その映画は素晴らしく、期待以上の思いを抱かせてくれる。
 最近ではレネ「Hiroshima mon amour」、宮崎駿「崖の上のポニョ」(結局2回観た)、そしてアンドレイ・タルコフスキー「惑星ソラリス」である。



 悲劇への想像力を欠いた優秀な科学者の、貴種流離譚である。流離する先は、ソラリスというどうも地球外の場所で、ソラリスは海の形状をした有機的な何からしい。
 ソラリスは、いわば「観念の海」で、主人公はソラリスに触れることにより、思考のパラダイムシフトが起きる。認知の変化が起こる。主人公が科学者仲間と「人類愛を実践できるのは、われわれが初めてかもしれない」と語るシーンへの流れは白眉。怖い。観念によるアフォーダンス。そこに神は、いない。

 私がロシア語を知らないことが悔やまれる。おそらく脚本に沿えば、字幕以上にものすごい事実が述べられているはずだ。

 ラストがこれまたすごい。叫びだしたくなった。なぜ、そうなのか、と頭を抱える。


 タルコフスキーだからこそ、映像美もものすごい。一個の人間がここまで美しい自然を、水を、火を、女性を撮ることに戦慄する。水の表現もさることながら、無重力(私はこれを癒しと捉えた)の表現がこれまたすごい。シャンデリアのガラスの表現、宙に浮かぶピエタ像のような主人公とその妻。あまりのことに涙が出た。


 音楽も素晴らしい。バッハのコラール・プレリュード、すべて電子音楽アレンジである。

 音楽がすばらしく機能している作品は素敵だ。「デッド・マン」のニール・ヤングによる即興演奏、「愛のコリーダ」の三木稔の傑作「奔手」、そして「恋人たち」のブラームスの弦楽六重奏曲代1番(変ロ長調)…例を挙げればキリがない。いつか映画と音楽の関係について、誰かとお喋りできたらどんなに楽しいだろう。


 *


 帰り道、新文芸座から地下鉄に入る道すがら聞いた話―われらが敬愛する精神科ナースの、かつての受け持ち患者Aさんのエピソード。

 Aさんは某有名大学附属高等部1年のころからずっと主席の秀才。Aさんは大学に入ってしばらくして、たまたま映画館にかかっていた「ソラリス」を観た。映画の帰り道、山手線に揺られていたAさんはふとあることに気づく。目の前に立っている女性に、後光が差していた。Aさんはその場にひれ伏した。――次に気づいたときにはAさんは病院のベッドに寝ていて、母親が心配そうに自分の顔を覗き込んでいたという。

 「ソラリス」により、統合失調症を発症した症例である。


 Jeanがいう―Aさんの発症のきっかけになった映画「ソラリス」は一体どんなだろうと恐怖があった。見終わって、「ソラリス」がそれに足る作品でよかったと思った。


 いや、ほんと恐怖体験。


 この休みは、さほどたくさんの映画を鑑賞できなかったのですが、観たものは全部素晴らしくて、嬉しいです。「ノスタルジア」は、なんでいままで観なかったんだろうと思うほど自分の趣味に合致する安寧さで、非常に慰撫されました。詩人がろうそくを持って水をわたるラストの安寧は圧巻です(ネタばれ)。
 「ブラザーサン」はアッシジのフランチェスコがドノヴァン作のフォークソングを歌い語る非常に良い作品です。フランシスカン、いいなあ。教会の石、積みたい。

 「ホーリーマウンテン」は会社の上司に勧められて鑑賞しましたが、ラテンの鈴木清順といった作風でホドロフスキーも好きになりそうです。イグアナと蛙の戦い(インカ帝国対スペイン艦隊の戦いを模している)は、映画史上もっとも楽しい戦いのシーンでしょう。

 ポール・グリモー監督作品。卓越した透明感のある色彩で描かれるフランス・アニメーションは、水色やピンクのドラジェを思わせる。「王と鳥」は、もともと「やぶ睨みの暴君」として公開された同監督の焼き直し(≒市川昆監督)。ジブリ・ファンの友達が「これ、ラピュタの元ネタだよね」といって貸してくれた。逃避行する恋人たちが紛れ込む大建築や塔、広場の設定などすべてが壮大で意匠に富み、見所が多い。なるほどラピュタ系巨大ロボット兵も登場する。ただしキャラクターの設定(ストーリーにおける意味付けや民俗学・史学・宗教哲学的考察を含む)の濃厚さでは、宮崎監督に一票。

 「ターン・テーブル」では、いかにグリモー監督がアニメーションに情熱を注いできたか、その軌跡を辿ることができる。チェコ・アニメ「鉛の兵隊」との関連も見ることができ、興味深い。アニメーション作家が作品のモチーフにしたがる人形、というテーマをもっと掘り下げたくなる。そして音楽も映像も素晴らしく、泣けてきてしまった。

 ヴェラ・ヒティロヴァ監督作品。配給会社はお洒落なガールズ・ムービーをして売りたかったらしいが・・・これはどこからどう見ても強烈な「反体制」映画でしょう。さしずめ主人公の女の子はチェコそれ自体、次々変わるパトロンの中年男性はスターリニズムの体現者か。 


 うーん。「それ以上」でも「以下」でもないので、気の利いたコメントは書けませんが、おもしろい映像表現へのアプローチだと思います。