子供の頃は直感に従って生きていた。
あれやりたいこれやりたいってのをすぐ行動していた。思い付いたら即行動!子供は急に走り出すから見ていてびっくりするが、誰もが経験していたことだと思う。

それが大人になるにつれて、「今すぐやらなくてもいいのでは」「明日やろう」といいわけを重ねて、結局なかなか行動に移せなくなっていた。ある意味、右脳の直感を左脳が邪魔するようになってきたのかもしれない。

ここ最近、40を過ぎた辺りから自分自身の生き方を意識して変えるようにしてきた。それはものの見方や考え方、行動、すべてにおいて。
人の悪い部分でなく、いい部分を見ていこう。
問題点を解決するために、イライラせずに、諦めずに、投げ出さずに、とにかく向き合い続けてみよう。
何かをするにあたって、自分自身の体に聞きながらやってみよう。
大きく言えばこの三点。

この三つ目の「体に聞く」というのは、何もスピリチュアルな話ではなく、年をとったことにより体力に頼った体の使い方をせず、なるべく負担のない体の使い方をしよう、ということだ。

最近事務仕事ばかりで慢性的な運動不足、それに伴う筋力の低下、その中で例えば草むしりをするとき、どうしても体を痛めがちだ。
ついつい速さや効果を求めて無理な体勢で横着にやってしまいがちだが、「草を抜くこと」に意識が行きすぎて「体の声」に耳を傾けていないと次の日にえらいことになる。
そこで、長時間草を抜くための体勢として、どんな姿勢がふさわしいのかを意識して体に聞きながらやってみる。
すると、大きく股を広げて屈んで草を抜くより、股を閉じておしりをかかとにつけて草を抜く方が腰を痛めないことに気がつく。このやり方にたどり着いてからは、草抜きで疲労することがなくなった。体力的な疲労は感じても、肉体的な疲労は軽減された。以前は身体中痛くて疲労感が半端なかった。

どんな小さな所作でも、体のどこかに小さな負担が伝わっている。そりゃ、体を常に無意識に動かしてはいるが、本来どこかを動かすということは理論的にはどこかを消耗することになるので当然のことではあるが、無意識でいると小さな痛みには気がつかない。
それらを意識して、この姿勢は腰に少しストレスを負荷させているな、では長時間この姿勢を維持するのはよくないな、ではどの姿勢が一番ふさわしいかと探っていると、自然と背筋が伸びていたりする。

私は、仕事をするにしても、常に安定したパフォーマンスを発揮するためには毎日の健康維持が最優先だと思っている。体調が悪いと安定して業務を遂行できないし、寝不足でもそれは同じ。体調管理、健康維持、ビジネスの基本。それができてはじめて仕事ができる。

なので、一日の疲労はその日の内にリセット、次の日に持ち越さない。できれば問題もその日の内に解決したいが、これはなかなか難しい。基本的には性格的に、嫌な気持ちは寝たら忘れるのでこの辺は昔から持ち越さないようにできてはいるのだが。

上記三点の他に最近変えようとしていることがもう一つある。それは、「やりたいと思ったことはやってみる」ということである。

今の会社を立ち上げてから得たことがある。それは、「やることを決めたら、あとはそれをどうやったらできるかを考えて実行していくか」というメソッドだ。

「できない」「無理だ」という考えは、思考がそこで止まっているからであって、必ずしも悪いことではない。
現実を見て、無理だと判断する力は必要だ。

でも、一歩踏み込んで、「どうしてできないのか」「なぜ無理なのか」というところまで考えてみる。

状況を分析し、「こういうところが原因となってできない」「こういう理由で無理だ」というところまでたどり着く。

そこで諦めるのではなく、ではそれを打開するためにどうすればいいか、どうすべきかを考える。人間追い込まれたらありとあらゆるアイデアが浮かぶ。まずは考えられるだけアイデアを出し、一つ一つそれらを分析、取捨選択、全てつぶれたらまたアイデアを絞り出す。その行程を繰り返す。そうやっていけば必ず道は開ける。

これらは経験した者にしかわからない価値観だと思う。でも必ず道はある、それにたどり着けず諦める者と、諦めずに行動した者の違いだと感じる。

その中で何かになりきってやってみるということは大事で、自分のやりたいことを実現させる第一歩でもある。窮地に追い込まれたとき状況を打開する一手になりうる。そう考えると、子供の時に行っていた「ごっこ遊び」がもたらす効果は計り知れない。何かをイメージし、問題にぶつかる度にルールを定め、変えていき、徐々に整理されていく。子供はどんどんごっこ遊びをしていくべきだ。そこで学び成長できる分野は実に広域に及ぶ。

話が展開しすぎてこのままだとかなり続いてしまいそうなので今日はこの辺で(笑)

最近また書きたいことが色々と増えてきたので、どこかで形にしていきたいと思います。

3部作、最後の曲です。「悲しきカナリア」

 

とにかく思い付いたときにサビのキーが高すぎて女性ボーカル用の曲だなと思ったけど、当初妹に聞かせたところ、「これ、兄ちゃんが歌わないの?これは兄ちゃんが歌わないと勿体ない、兄ちゃんの声に合う」と言われ、じゃあやってみるかとやった曲。
テンションコードの響きなども壊したくなかったので、キーは下げずそのままやることに。

しかし高すぎるサビをどう歌うかで試行錯誤。裏声を使うにしても、切り替えるポイントが難しく、何パターンか試して一番よさそうなものを選ぶ。
Cメロの、裏声と地声が交互に出てくる掛け合い部分もどう切り替えるかで色々やってみて、右と左に首を傾けて切り替える歌い方に落ち着く。奇しくもカナリアが首を傾げるような仕草にw


Cメロは少しずつ拍数を減らしていくスリリングなアレンジを敢行。間奏からサビに戻るのに、また転調してキーを戻さないといけないんだけどどうやって戻そうか?となり、4つのコードで無理矢理戻すことにした。音楽理論は今も昔もそこまで詳しくないが、理論に詳しい当時のベーシストも理論的にもまあ何とか収まってる感じ、という風にまとまった。感覚的に選んだコードだったが結果オーライ、と強引に仕上げた。


「いつか見たあの日の情景をひとつひとつ指でなぞるようにしてあてはめていく。幻はまやかし、孤独を甘やかし、風が頬をそっと撫でて笑う、、、『悲しきカナリア』」
ナレーション(語り)から始めるといった新たな試みにも挑戦した曲。
タイトルコールしてイントロが始まるといった、ライブ感を意識して作った展開。
どんなに残酷な結末だったとしてもいつだって風はそれらを笑うように頬を伝っていく。風にとってはこっちの状況なんてお構いなしなのだ。そんな俯瞰。

「ゆっくりと今浮かんでいる最後の時に、声が掠れて止められない朱の空へ」
声が突然出なくなったらどうするか。特に助けてほしいとき、自分が最後を迎えるかもしれない瞬間。
そんなことをよく考えていたので、その辺の心情が描かれている気がする。
話としては、別れの時、声が掠れて呼び止めることができない、引き留めることすらできないといった部分。


「ああ見失うほどに焦がれて、そういなくならないように君の名を繰り返す」
幼い子が自分を置いていった母親の名を泣き叫ぶように、ひたすらその名を繰り返し叫ぶ。それはいつか失うかもしれない恐怖心から、日常的に見られていた。

「ただ会わなければこの声を枯らすほど叫ぶこともなくて、悲しきカナリア、それでもよかった」
会うことがなければ別れのつらさを知ることもなかった、カナリアの泣く悲しい鳴き声が部屋に鳴り響く。

「ただ透明な声で歌うからそばにおいてもらってるだけの悲しきカナリア、それでもよかった」
歌手がよく形容されるカナリア、綺麗な声で鳴くからそばに置いてもらっているだけ、相手にとってはそうかもしれないけど、自分はそれでもいいからそばにいたい、といった話。

「居場所をなくしたカナリア」
やがて別れの時は訪れ、鳥籠の中で一人取り残され、飼い主は帰ってこない。そして孤独死を迎える、といった結末。

 

小学4年生の頃、国語の授業で詩を書くことがあり、何を書こうかと思ってたら母から「動物に例えてみたら?」と言ったアドバイスを受け、当時好きだったハヤブサになり、自然破壊をして僕たちの住処を奪わないでと言った話の、「僕はハヤブサ」という詩を書いた。

先生に「動物になりきって書くというのが斬新」と褒められ、味を占めて次に書いたものが「俺はライオン」。何とも安直な発想であるwその作品は言うまでもなく初期作品より評価されなかった。

 

その辺のルーツが滲み出てるような曲だな、と今振り返るとそう思える。人生って因果なもんだ。

昨日に引き続き、3曲のうちの一つ。今回は、「The last memory of your melody」という曲のお話。

 

自分の曲ながら、イントロを聴く度に胸の奥がかきむしられるような気持ちになる。イントロのフレーズは、オクターブを越えた、何奏法というのか今もよくわかっていない、確か2弦と5弦を使ったようなリフで、この音の配列が好きで当初ちょこちょこ使っていた延長線上で生まれた曲。

この曲には青くさい青春や、思うようにならない人生観だったり、友情、当時のバンドマンライフの日常が詰め込まれている。

Aメロはこのイントロフレーズを崩したラインにメロを乗せた感じ。
サビは割とストレートに、でも得意の部分転調は忘れていないコード進行。

「敷かれたレールの上歩くだけの人生。都会の空は狭い。ここからじゃお前のいる場所は見えないかな。自由になりたい」

モチーフとしてはソラニンのようなテーマで、「亡くなった親友」に向けての物語となっている。
社会人、敷かれたレールの上を歩くだけの人生、高層ビルに囲まれて、空を見上げるとこんなに狭かったっけ?と、ふとその場所にいるはずの「お前」を思い出す。

「新しいお前の歌が俺の中でそう生まれていくのなら答えてよ、今ここにある全てはもう何の意味もなくただ崩れてくのか?」
その瞬間、ふと降りてくる歌。そうか、この曲をお前の代わりに俺が歌うよ。ただ目の前にある現実、これらは全て何の意味があるのかふとわからなくなる。そう思った瞬間、全てが崩れていく。あの都会の雑踏も高層ビルも全て。そして無限に広がる青い空。

「写し出す夢の続きそっと描けたらいつしか現実と重なる。うらぶれた帰り道で路傍に咲く花を見てまた思い出す」
あの頃見ていた夢の続き、今からでも遅くないかな。
夢か現実か、その境目で迷っているとき、路傍に咲く花に出会い、沸き上がる感情。
うまくいかないことばかり、下を向いて歩いてた帰り道、コンクリートの隙間から、どんな場所でも腐らず咲き誇る花を見つけて、いつからか空を見上げていないことに気づく。

「今過ぎ去りし日々を想う。揺れ惑うように痛みに耐えきれず壊れていく。下らない愛の言葉など形にできない、儚く散っていく花のよう、、、花のよう、、、」
過去を思い返せば、耐えがたい痛みに苛まれる。人は過去の苦痛を忘れることで生きていくことができるし、未来へ進むことができる。夢と現実、過去と未来、全てがつながっている。
愛の言葉なんて形にできないし、そのときの気持ちを伝えることが大切なのであり、言葉選びに囚われていても本質を見失う、それはあたかも花のように散っていくものなのだから。

「私はそう思う、私はあなたのために歌を歌う」
そう締め括られる歌。

青春ソングですね(笑)