夕鶴荘とマクドナルドとノクターン
「夕鶴荘とマクドナルドとノクターン」私は学生の頃、築67年の夕鶴荘という物件の1階角部屋で暮らしていた。夕鶴荘には第一夕鶴荘と第二夕鶴荘があって、第一夕鶴荘は単身向け。砂利道を挟んだ向かいにファミリー向けの第二夕鶴荘が建っていた。家賃は都内ではかなり安い4万円で、敷金も礼金も無かった。敷金が無かったので退去する時にお金がかかるか大家さんに聞くと、取らないから大丈夫だよと言ってくれた。家の鍵はドラクエに出てくるみたいな鍵で、受け渡しの際、驚きと笑いが両方込み上げた。私、東京ダンジョンに放り投げられた?試しに安全ピンで開けられるか試したら案の定簡単に開いた。年頃の女の子がなんて所に住むのだろうと他人事のように思った。トイレは珍しい和式トイレで、流すときは紐を引っ張ると流れるようになっていた。せめてレバーでしょ?紐引っ張るって。と苦笑した。お風呂はカチカチカチとダイヤルを回しながらうまい具合に火種をつけるタイプで、T字の安っぽいアルミの煙突が窓から外へ突き抜けていた。外にはリサイクルショップで5千円で購入した2槽式洗濯機がガタガタと唸るように動いていた。本当にここは平成の時代のギャルが沢山いる都内なのか?と全てが嘘っぱちに思えるような物件だった。まるで、昭和初期にタイムスリップしたかのような感覚に陥るそんなレトロな激安物件だった。朝日が昇ってから暮れるまで、昔ながらの大きな南向きの窓から燦々と太陽の光は惜しみなく私の部屋に振り注いだ。砂利道で第二夕鶴荘の決して裕福ではないであろう幼い子どもたちが賑やかに遊んでいるのが見える。明るい部屋と子どもたちの笑い声は私の心に活気を与えてくれた。夕鶴荘の住人で大家さんから教えてもらったのは、2階にパンチパーマの50代くらいの人がいるけど、反社の方だから、トラブルに気をつけてねと言われた。パンチパーマのおじさんは私が朝のバイトを終えて帰宅する頃顔を合わせることがよくあった。おはようございます。と頭を下げると、ビックリするほどとても大きな声でおはようございます!と挨拶してくれた。住み始めてから会ったのは、とても太ったお世辞にもカッコいいとは言えない男性と、テレビや雑誌から出てきたようなモデル系美女だ。同じ部屋に暮らしていた。ちょうど私の部屋の真上だった。いつも仲良く手を繋いで出かけるのを目にした。挨拶すると美女が軽く会釈してくれた。美女と野獣。何がどうなったらこのカップルになるのかと思ったが、それは夕鶴荘のみぞ知るところなのだ。厄介だったのは私の隣の住人だ。その住人は40過ぎくらいのやせ細った男性で、いつも決まって深夜2時に帰宅する。そして薄い壁が崩れるのではないかと思うような力強さで私の部屋の方の壁を1時間ばかり叩くのだ。私はドリフのコントみたいに壁にコップを当てて静かになった隣の部屋に聞き耳をたてた。その男は1時間壁を叩いたあと決まってボソボソ何かを話していた。何を話しているのか恐怖心と興味が混じり合いながらコップに耳を当てる。男はママ、ママと何度も連呼しながらママと思われる人と毎晩電話をしていた。なんだ、マザコンじゃんと思いながら数日コップで聞いていたが、大した話もなく、そのうち睡眠時間が勿体ないと聞くのを止めた。私は朝の3時半に田無の夕鶴荘から自転車で五日市街道沿いのマックまでマッハで移動して4時から早朝バイトをしていた。ある日自転車のタイヤがパンクしていた。嘘でしょ?と思ったが走っていくには遠すぎるのでパンクした自転車をガッコンガッコンいわせながらマックまで向かった。急がなきゃいけない時に限って、まだ真っ暗な早朝の駅前で、警察官に止められ職質をされる。どこから自転車を盗んだんだと言われる。こんな時間に何してるのかと聞かれる。大学生でこの自転車は私のものです。今からバイトに行きます急いでいます。と言ってもなかなか信じてもらえず困ったことが幾度とあった。私は何があっても4時前にマックに着いて制服を着てオープン前の準備に取り掛からなければならない。それはマックのバイトの面接をした時に店長と交わした約束だったからだ。店長は誰もやりたがらない早朝バイトに入れる人を探していた。しかも本来なら2人人員を入れるところを1人でやってほしい。つまり君が絶対に休まずこなきゃいけない。私は、その条件を呑みます。そのかわり学費と生活費の為に稼ぎたいから、大学の3時間開いた時に3時間優先的にインさせてほしい。夕方も都合のいい時は優先的にインさせてほしい。沢山働かせてもらいたいと、両者の利害の一致で私は採用になった。4時には、夜のクルーがバラして液剤に浸け置きした様々な部品を洗い組み立て補充する。5時には店舗をオープンさせる。厨房は店長と天野っち。店頭はドライブスルーとカウンターを1人で私が受け持つ。左耳でドライブスルーを聞きながらマイクを上げ下げさせて、うまい具合にカウンターの客の注文を同時進行で右耳で聞き捌いていく。両耳に全集中。そして無駄なく動きながら常にスマイル。そのうち付いたあだ名は聖徳太子だった。だから何としても私は4時前までにマックに行かなければならなかったのだ。タイヤを何回も隣の住人にパンクさせられても、職質されても、41度の熱があって真夜中に自転車で武蔵境の南口の先の日赤に行って肺炎を起こし点滴を受けて医師からタクシーで来いと怒られようと、雨が降ろうが雪が降ろうが私はマックへ毎日ママチャリぶっ飛ばして向かったのだ。店長、天野、そして私。誰が欠けてもオープンは半端なくキツくなる。もう運命共同体だった。天野は法政大学の3年生で、私より1つ年上だった。天野に親しみを感じていたのは、世の中から苦学生という言葉が死語になりつつあった当時、私と同じバカがつくほど苦学生だったところだ。天野は取壊しが決まっている2DKの広いボロアパートに住んでいた。趣味のピアノを置いていいし、いつでも弾いていい。なんと家賃も1万5千円という破格を提示された。大家さんは、そのかわりといってはあれだが、入居中の5人の老人の部屋をピンポンして朝晩2回生存確認をして欲しいというなんともこの後期高齢化社会の闇を見るような交換条件を天野に突きつけて天野はそれを承諾したのだ。ある日、まもなく5時のオープンになるというのに天野が姿を見せなかった。厨房から、「天野来ねーなー。勘弁しろよー。頼むよー。」と店長の悲痛な叫び声が聞こえてきて、当時携帯はあると言えばある時代であったのだけれど、バカ苦学生の私と天野は持っているわけもなく、連絡の取りようが無かった。オープンギリギリに天野が泣きじゃくりながら姿を現した。店長と私は「天野〜!」と喜びの声をあげたのだが、天野は「102号室のおばあちゃん死んでた」と鼻水垂らして泣いていた。天野にかける言葉を探したが私は見つからなかった。店長は天野にハグをすると、天野の耳元で、バンズに鼻水垂らすなよ!と真顔で言った。思わず私と天野はクスリと小さく笑った。私たちは手を動かしながらも天野の救急車と警察を呼んだ悲しくも勇ましい活躍を聞きながら、3人でいつも通りのオープンを迎えたのだった。三鷹の友人宅でオールでジンをストレートで3本開けて、いつものようにマッハでママチャリぶっ飛ばしマックに行ったこともあった。店長に酒くせーと言われながらなんとかオープン準備をしたものの、吐気に耐えきれず、店長、吐いてきていいですか?限界です。と2階のトイレに駆け込んだ。ドライブスルーだけは受けろと言われたので、合図音の時にゲロをグッと堪えてマイクを下げ「いらっしゃいませ、おはようございます。ご注文どうぞ!」と言い、マイクを上げてゲロゲロ吐きながら注文を聞く。どのセットに何をつければ消費税込みで幾らかを全部インプットしていたので、注文を聞き終えると再びゲロをグッと堪えマイクを下げ、「お会計◯◯になります。お車気をつけて前の方へどうぞ!」と言う。1階で聞いている店長が打ち込みと対応をしてくれた。店長ごめん!とゲロゲロ吐きながらチョビット泣いていたら、内線で天野が「オグオグ大丈夫!?」と聞いてきてまた泣いてしまったこともあった。そうやって、日々365日私たちは運命共同体で支え合い頑張ってきたのだが、ある日終わりを迎えることになる。天野は四国が地元で、父親が小さな工場を営んでいた。4つ上のお姉さんがいたのだが長いこと植物状態で寝たきりというのは聞いていた。そのお姉さんが亡くなり、父親が倒れ、天野は大学を辞めて工場を継ぐ選択肢を選んだ。本当に急なことだった。天野が、オグオグもピアノ好きだよね。オレ、ピアノも好きなんだけど料理も好きで最近パエリアにハマってるんだ。引っ越しする前にオレ、パエリア、うーんと美味しく作るから食べに来てよ。とクシャッと笑って言った。天野が作ったパエリアはお洒落で手が込んでいて本格的で、本当にバカ美味かった。天野の家の鍵もドラクエキーで2人で同じだー!とゲラゲラ笑い、もしかしてトイレ和式?うわー、紐タイプ!私たちオソロっちだねー!ってまたゲラゲラ笑い、最後の晩餐を名残惜しくも楽しんだ。天野が、「最後にさ、オレとオグオグでピアノ弾きッコしようよ。さよならはさ、言いたくないからさ、ピアノ弾くよ、オグオグのために。」そう言って天野は鍵盤にかかった赤い布をさっと取ると私に背を向ける格好で、静かにノクターンを弾きはじめた。充分その小柄な背中からも天野の想いも覚悟も伝わってきて、悔しいけれど泣かされてしまった。私は何を弾こうか。でも既に決まっていた。サクリファイス。犠牲者だ。私たちは普通の学生が背負わない様な生活の重さ、人の死、家庭の事情、労働の責任を未成年の頃からもう背負わされているのだ。誰が悪いとか、だから私たちが偉いとかそういう話でもない。この別れの湿っぽさだけじゃなくて、生活の匂いと笑いと若さとどうしようもない事情が全部混ざり合っていて、私たちは今を生きている。それは時として激しい動悸に耐えられなくなる日もある。でも涙をユーモアに変える魔法も使えるのだ。ただ苦労したんじゃない。その場その場でちゃんと結びついてる。過酷なのに濃くて、それは私たちがただ耐えた人じゃなくてどんな場所でも人の温度や滑稽さや悲しさを拾い集め自らの命の水に変えている。天野も私のサクリファイスのメロディーと背中から想い伝わった?私たちは笑って最後は音楽で想いを交わした。それはどんな素晴らしい音楽よりもどんな素晴らしい小説よりも濃厚で美しい私たちらしい「最後の晩餐」だった。天野がいなくなってから、しばらく早朝バイトが決まらず、私と店長でパートのおばさんが来る時間までなんとか切り盛りした。準備中、厨房の店長とカウンターの私はデカい声を張り上げて天野の思い出話なんかしていた。もう天野は戻ってこない。でもなんか、魂はここにあるような変な感じがしていた。きっと天野のことだ、四国でベソかきながら、全身全霊で自らの運命を受け入れ、時に抗い、真っ直ぐ清々しく音楽と共に生きているんだろう。またいつか、うーんと美味しいパエリア食べたいな。あの日あの時、私たちは剥き出しの生命で共に全速全霊で駆け抜けていた。親愛なる天野。どうかお元気で。-------------------------------------------------------------短編小説というより、ちょっと長くなってしまいました。もし最後まで読んでくれた方がいたなら嬉しいです。マック、写真ラボの魅力、カラオケバーでの作ってるカクテルに卵黄まで入っちった事件、珈琲専門店の青い炎のアイリッシュ珈琲など、色々なバイトを盛り込みたかったのですが、長くなるのでマック(マクドナルド)のみに絞りました。実話かフィクションかはご想像にお任せします。私の出会ってきたどこか曲のある憎めない優しき友人たちが、みんな平穏で幸せでありますように。 2026.06.05 sae