五木寛之さんの「大河の一滴」を漸く読了した。振返れば読み進むさなかから、見城さんの日々のご投稿、自身の様々な生活の場面において、本書に示されている言葉が思い出された。
中でも「人はみな大河の一滴」の章にある次の言葉に本当に救われた。現実社会にこそ「極楽」「地獄」が存在し、だからこそ「早天の慈雨」がある。
「「人が生きるということは苦しみの連続なのだ」と覚悟するところから出直す必要があるのではないか」
「極楽とは地獄というこの世の闇のなかにキラキラと光ながら漂う小さな泡のようなものなのかも知しれない」
見城さんが「人生は苦しみの連続だ」と良く話され、お聞きする度に心の何処かで正直「何故、そこまで悲観的に」と感じていたが、悲観そのものが現実社会に存在するもので、それを受け止めるからこそ踏み出せると強く鼓舞されているのだとの理解に至った。
著書全体に、「現実」、「人生」への原理とも言える深い洞察が盛り込まれており、それがこの極限の様な状況において富に人々に自覚され、また救いをもたらすからこそ今またベストセラーとなっているのではないか。そこには「現実に生きざるを得ないこと」、だからこそに「あるがままであること」の大切さを根底に説いておられる様に思えた。
「あの極限状態のなかを脱落せずに生き残ったのは、人よりつよいエゴ、他人を押しのけてでも生きようという利己的な生のエネルギーの持主たちではなかったのか。そして人一倍身勝手で業の深い者たちだったのではなかったか。『善き者は逝く』この世にしぶとく生き残ってきた者は、すべて「善き者」たちの死によって生きながらえている罪深き者なのだ、という気がしてならない。」
同時に亡くなられた弟さんを懐古され「かすかに苦笑するような表情で、ぽつんと「まあいいじゃない」と独り言のように言う。」と記載されていた。
「それが現実」と弟さんの様に呟きながらも、自身は自己検証し自己嫌悪するのだろうか。「大河の一滴』直後にて人生観が変化して来ており。
この言葉は、いつも仕事のことや世間のことで激高し、怒りをむき出し周囲に当たりちらしていた五木さんへの早逝された弟さんの対応の描写で、五木さんはその態度を肯定も否定もせずに、ただ逝去に際して「良き者は逝く」との言葉が心に浮かんだと著されていた。
また酒鬼薔薇という少年を生みだしてしまった親、オウム事件で息子が刑に服することになった親など、もう立ち上がれないと打ち拉がれている方に、プラス思考や「頑張れ」と言う言葉など上滑りしていくだけで、余計に辛くなる状況もあると慈悲の<悲>についてまとめられている。それこれが現世だからこそ起こるもので、それを否定もせずに受け止める事の大切さを説かれ、「応仁の乱からのメッセージ」を最後にまとめらる事によって御著書全体で日々悩みながら生きている人々を癒されている様なそんな気がたし、加えて見城さんのトークの一部分を別の側面から理解させて貰えるようにも思えた。
読書中は、正直、最初の「人はみな大河の一滴」の他、数章に惹かれたのみで読み飛ばして行ったのだが、読了した後に日々の生活のそこここで思い起こされる下りが多く、だからこそ仰る様に色褪せないんだなと思う。
現世の中に有りのままを受け入れる。
機能性を追及し、合理化、標準化に走り過ぎた社会に中で、不便である事、複雑である事、多様性が、価値や意義を20年前に読み取っており、それがテクノロジーの進化が顕著になった今、改めて見直されている
現実を受けいる事の大切さ、大河の一滴
決してそれは諦めではなく、明日への力強い糧となる少なからずの平穏を頂けた。