第一部 山人って何? 28回
登場人物の紹介
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「ツイートする
勝と熊、四郎と五郎、今いずこや?
那智のおやまにゃ、おとろしいから
ひとりでゆけないのよねぇ。」
勝四郎と熊五郎のふたりが和歌山市へいってから、もう一週間になる。ふたりが何しにいったのか、流行ものに興味のない熊楠は、彼らが話していた内容など忘れてしまった。なんでも、おなごのケツを追いかけに行ったことに違いはあるまい。
粘菌や陰花植物の手持ちの標本を作り終えて、新たな種を探しにゆこうと思い、勝四郎の家まで訪ねたら一週間前から帰ってないという。三日前に大阪からハガキがきたが、今、新しい仕事で大阪にいると、二三行だけ、いつもの判読ギリギリの汚い文字があっただけだという。ハガキをみせてもらうと、眼がいたくなるような、こ汚い文字だ。肉親だからこそ読めたのであろう。
那智山へひとりではゆけないので、どうしたものかと思案しながら、自宅の庭をブラブラ歩いていると、郵便屋のおっちゃんが探偵社からの報告書を届けてくれた。読んでみると、大根泥棒の犯人探しについて、そもそも、大根は盗まれたものではなく、売却された可能性があるということだった。複合的に犯罪が連鎖している可能性まであり、錯綜とした状況にあるが、引き続き捜査を続ける、とあった。「ハナミズキ」というスナックに売却したのではという被疑者が出入りしているらしい、とある。
熊楠は、山人が大根を盗んだという柳田説が覆る方向にありそうなので、ひとりほくそ笑んでいた。そこへ、牟婁新報の編集長である毛利が訪ねてきた。田辺の台場公園が売却され、九月から民俗博覧会なる会場になるというのだ。
「ほんまか、そしたら公園の植物採集がでけなくなるやないけ」と熊楠は毛利に怒るかのように大声をあげた。無実である毛利は、しかし熊楠とおなじく興奮しているようで、今その問題で町の皆で、決議を開こういうとんのや、とこれまた大声をあげた。あまりのオヤジふたりの声が大きいので、家から妻の松枝とお梅が飛び出してきた。何事かとたずねられ、彼女らに怒るかのように、ついつい興奮が止められず、「どこのどいつじゃ、そがいなことを企んどるのは、殺ひたるでぇ」と更に大声をあげてしまった。
その後の記憶がハッキリしないのは、癇癪をおこし血が頭にのぼったときの、いつもの癖だ。自分でも時々、正気にかえったとき、必ずや恐ろしくなるのだ。気がついたら、錦館で毛利や喜多幅ら五、六人の連中が、芸者をあげて騒いでいる最中だった。熊楠は、芸者の桃太郎の膝枕の上で目覚めた。桃の柔らかい太ももの心地良さに浸りながら、座敷の中央で毛利と若い衆がどじょうすくいを三味線の音色に合わせて踊っている姿をぼんやりと見ていた。
「熊あん、大丈夫か」喜多幅が目覚めた熊楠に気づき声をかけてきた。公民館に集まった田辺の町民合わせ百五十人ほどを前にして、決議集会を開き、台場を取り戻せ運動を町役場に対して起こすことになり、熊楠は博物学の立場から、生態の大切さについて演説し、力み過ぎて、聴衆の面前で放屁をはなち、その場に倒れたのだという。このように倒れられたのをみてもわかるように、南方先生も怒ってるのやと毛利がだみ声で叫ぶや、公民館の窓ガラスが割れるほど、集まった人々は熱き大声でシュプレヒコールをあげたと喜多幅は言う。その後、熊楠を介抱するため、急遽有志が集まり、錦館で芸者も呼んで景気づけしとるとこ、だそうだ。
錦館の帰り、毛利からまたもや妙な話がでた。台場のほかに、那智の山の山林が売却されるらしいという。熊楠は自分の脳の血管がプツンと音を立ててきれるような気がした。一瞬、息がつまり、立ち止まってしまったほどだ。喜多幅がおいおい、そないに興奮するとまた癲癇おこすでといったが、そんな簡単にはおのれの怒りの流動はやまないことを知る熊楠は、毛利達の顔を睨みつけながら、犯人はどこのどいつじゃと叫んでしまった。
喜多幅に背中をさすってもらいながら、興奮しすぎて咳こんでいる熊楠に、毛利は落ち着いた声で、なんでも農家の主人が売却したという。だが、その主人は実は先日、大根を大量に盗まれた被害者でもあり、牟婁新報の敏腕記者が取材中とのことだ。間もなくいろいろわかるだろう。
毛利の落ち着いた声を聞いているうちに、冷静さを取り戻し始めた熊楠の心に、何かがある図式をなしつつあった。南方マンダラを使って、おのれの心像を描き、何かが、いままでのデータから、形が生まれつつあった。
「そうか、そうやったんか。いや、そうなのだよ」熊楠は自分でも驚くほど落ち着いた声で、毛利と喜多幅のふたりにつぶやいていた。
ふたりは顔をみあわせ、「熊あん大丈夫かい」と聞かれ、それが妙におかしく、笑い声を、それもいつ果てるやもしれぬほど長く続く笑い声をあげてしまった。ふたりは、そんな熊楠の様子をみて、いっそう心配そうな顔をしている。ついにおかしくなったのかといいたいようだ。自分の笑い声が下弦の月夜に、いつまでも響くようだった。
店の中は、京子の店よりも広い気がした。お客は奥のボックスに三人、他にカラオケを歌う、源蔵より十歳くらい上の老人の男女が四人いた。カウンターには源蔵ひとりきりだ。
サキという、京子の友人である店のママは、京子よりも若くみえた。髪は外人みたいにやや薄い金色で、淡いモスグリーンのアイシャドウを塗っている。京子よりもくだけた感じで、親しげな話し方をする。カウンターの両端のそれぞれには、花瓶があり、ふたつの花瓶に、種類の違う花が活けてあった。
もうすぐ紫陽花の季節だよ、とサキは花瓶の花を見つめていた源蔵に声をかけてきた。「そうだね、でも梅雨でもあるけどねぇ」と源蔵も微笑みがら、返事をした。
「梅雨になるとあたしらのような商売だと、カッパやむしろをびしょ濡れにしながら、外回りしなくちゃだから」
「へえ、そうなんだ、置き薬だったよね」
「そう、一軒ごとにね、回るのさ。子供のいる家には、紙風船をね、薬屋のマークのはいったやつを、宣伝かねて置いてくんだ」
奥のボックスのお客が氷とあたりめを頼んだ。振り向くと、ふたりはワイシャツにネクタイで、ひとりは作業服姿の柔道家みたいで、好色家そうな顔をしていた。ボックス席に近づくサキを、執拗な眼で見つめている。同じ好色家同士、源蔵にはその男が、サキの身体を舐め回すように見ているのがわかった。スケベ同士、ピンとくるものがあるのだ。ただ、源蔵はもう枯れ始めた年齢だけあり、サキくらいの年頃の子には、自分の子供のような父性的な感情しかわかないのだが。
老人のお客達が勘定をすませ、帰ろうとして扉の前まで歩いたときだろうか、扉が開き、ひとりの背の高い外国人女性が入ってきた。栗色の長い髪の毛をして、パンツルックで大股で歩きながら、カウンターの、源蔵の座るとなりの席についた。何時までかしら、とはっきりとした日本語でサキに訪ねたので、源蔵はその女性の顔を見つめてしまった。その女性が源蔵のほうを見たので、少し、恥ずかしさを覚え、声を出すかわりに軽く会釈した。女性も会釈を返し、無表情だった顔に、優しいほほえみが生まれた。
奥のボックス席の柔道家みたいな好色家はもちろんのこと、ワイシャツ姿のふたりの紳士達も、カウンターにいる外国女性をもの珍しそうに見ていた。他人からもの珍しく見られることに慣れているのか、奥のお客達にも、その女性は微笑みながら、会釈をした。
サキだけは客なれしているのか、外国女性客に、おしぼりをだしたり、おすすめのメニューなどを説明したりした。しばらくして、サキとその外国女性との会話を聞いたところ、日本人だとわかり、また、東京でお芝居をしている女優でもあるというのを聞き、源蔵も会話に加わり、女性の名前が、門前ルイーズ、つづめて、ルイと呼んでくれと言われた。
「じゃ、おれはゲン、って呼んでもらおうかな」笑いながら源蔵が言うと、ルイもサキも笑った。「それにしても外国人みたいにみえるよね」と源蔵がいうと、ルイの祖母も母も偶然、外国人なのだそうだ。三世と二世に外国人の血が混ざって、ルイ自身もそして兄弟もみな、白人、つまりはスペイン系の顔だちらしい。
しばらく歓談していると、奥のボックス席の客達が帰り、帰りぎわ、柔道家みたいな好色男が、サキとルイの身体を執拗に見ているのを、源蔵は横目で観察していた。
「また花田のやつ、今帰ったすけべそうな客のことなんだけど、月末のツケだと言ったんだよ。ほぼ毎日くるんで、夜逃げでもされたらたまんないよ」とサキは吐き捨てるように源蔵たちに愚痴った。
ルイは東京から昨日の夕方、和歌山県に来たのだという。田辺にある旅館に泊まり、今日の午前中、郷土資料館でここ数ヶ月の事件を調べていたら、大根の大量窃盗事件と山人犯人説が、柳田國男のブログにあるという。最近、柳田と山人の映画に協力し、柳田の知人が和歌山の田辺で民俗博覧会を始めるので、下見に来たのだ。ついでに、大根泥棒の現場を見物に来てみて、帰りがけいっぱいやりたくなり、散歩してたら、お店の看板が眼に入り、立ち寄ったという。
このあたりにキャバクラみたいのはないかな、と源蔵がサキに聞いたとき、店の扉が開き、ひとりの眼光鋭い男が入ってきた。下駄ばきに、浴衣、短髪で短い口髭、そしてくわえ煙草で、たもとに両手を入れたまま、ブラブラとカウンターまでやってきた。男はルイの顔や源蔵の顔を見ても、表情を変えることなく、自然にルイの隣の空いた席に座ると、ここにはスコッチはおいてあるかと、サキからおしぼりを受け取りながら聞いた。
スコッチウィスキーをストレートで、一気に煽ると、男は煙草に火をつけながら、ルイの顔をちらりと見て、おたくは東京で猫の芝居をやっとったね、と言った。ルイは驚いた顔で、お芝居をみてくれたのですか、と聞いた。いや、わいはね、東京へはしばらく行ってないよ。雑誌だよ、いろんな雑誌を読むので、劇団の情報が載っている雑誌で知っとった。まさか、この店にいることのほうが驚きだな、と言って笑った。
しばらく話をしているうちに、大根泥棒の話になり、源蔵もその新しい客に心引かれ、柳田先生からの依頼のことやキューブ学園のたくあんの話をしたら、短髪の男は、眼光をいっそう鋭くして、そうやったんか、とカウンターをどんと叩いた。灰皿の灰やグラスが一瞬、宙に浮いた。何が、興奮するきっかけだったのか、源蔵には分からなかったが、テトラ、キューブの名前が出たときに、今度はルイが、え、そうなんだとこれまた大きな声をあげたのだ。
サキだけが、ひとり静かに、くわえ煙草で、食器を洗っていた。水音がかえってその場の異様な空気を冷ますかのように、店内に響いていた。
(次回へとつづく)
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勝と熊、四郎と五郎、今いずこや?
那智のおやまにゃ、おとろしいから
ひとりでゆけないのよねぇ。」
勝四郎と熊五郎のふたりが和歌山市へいってから、もう一週間になる。ふたりが何しにいったのか、流行ものに興味のない熊楠は、彼らが話していた内容など忘れてしまった。なんでも、おなごのケツを追いかけに行ったことに違いはあるまい。
粘菌や陰花植物の手持ちの標本を作り終えて、新たな種を探しにゆこうと思い、勝四郎の家まで訪ねたら一週間前から帰ってないという。三日前に大阪からハガキがきたが、今、新しい仕事で大阪にいると、二三行だけ、いつもの判読ギリギリの汚い文字があっただけだという。ハガキをみせてもらうと、眼がいたくなるような、こ汚い文字だ。肉親だからこそ読めたのであろう。
那智山へひとりではゆけないので、どうしたものかと思案しながら、自宅の庭をブラブラ歩いていると、郵便屋のおっちゃんが探偵社からの報告書を届けてくれた。読んでみると、大根泥棒の犯人探しについて、そもそも、大根は盗まれたものではなく、売却された可能性があるということだった。複合的に犯罪が連鎖している可能性まであり、錯綜とした状況にあるが、引き続き捜査を続ける、とあった。「ハナミズキ」というスナックに売却したのではという被疑者が出入りしているらしい、とある。
熊楠は、山人が大根を盗んだという柳田説が覆る方向にありそうなので、ひとりほくそ笑んでいた。そこへ、牟婁新報の編集長である毛利が訪ねてきた。田辺の台場公園が売却され、九月から民俗博覧会なる会場になるというのだ。
「ほんまか、そしたら公園の植物採集がでけなくなるやないけ」と熊楠は毛利に怒るかのように大声をあげた。無実である毛利は、しかし熊楠とおなじく興奮しているようで、今その問題で町の皆で、決議を開こういうとんのや、とこれまた大声をあげた。あまりのオヤジふたりの声が大きいので、家から妻の松枝とお梅が飛び出してきた。何事かとたずねられ、彼女らに怒るかのように、ついつい興奮が止められず、「どこのどいつじゃ、そがいなことを企んどるのは、殺ひたるでぇ」と更に大声をあげてしまった。
その後の記憶がハッキリしないのは、癇癪をおこし血が頭にのぼったときの、いつもの癖だ。自分でも時々、正気にかえったとき、必ずや恐ろしくなるのだ。気がついたら、錦館で毛利や喜多幅ら五、六人の連中が、芸者をあげて騒いでいる最中だった。熊楠は、芸者の桃太郎の膝枕の上で目覚めた。桃の柔らかい太ももの心地良さに浸りながら、座敷の中央で毛利と若い衆がどじょうすくいを三味線の音色に合わせて踊っている姿をぼんやりと見ていた。
「熊あん、大丈夫か」喜多幅が目覚めた熊楠に気づき声をかけてきた。公民館に集まった田辺の町民合わせ百五十人ほどを前にして、決議集会を開き、台場を取り戻せ運動を町役場に対して起こすことになり、熊楠は博物学の立場から、生態の大切さについて演説し、力み過ぎて、聴衆の面前で放屁をはなち、その場に倒れたのだという。このように倒れられたのをみてもわかるように、南方先生も怒ってるのやと毛利がだみ声で叫ぶや、公民館の窓ガラスが割れるほど、集まった人々は熱き大声でシュプレヒコールをあげたと喜多幅は言う。その後、熊楠を介抱するため、急遽有志が集まり、錦館で芸者も呼んで景気づけしとるとこ、だそうだ。
錦館の帰り、毛利からまたもや妙な話がでた。台場のほかに、那智の山の山林が売却されるらしいという。熊楠は自分の脳の血管がプツンと音を立ててきれるような気がした。一瞬、息がつまり、立ち止まってしまったほどだ。喜多幅がおいおい、そないに興奮するとまた癲癇おこすでといったが、そんな簡単にはおのれの怒りの流動はやまないことを知る熊楠は、毛利達の顔を睨みつけながら、犯人はどこのどいつじゃと叫んでしまった。
喜多幅に背中をさすってもらいながら、興奮しすぎて咳こんでいる熊楠に、毛利は落ち着いた声で、なんでも農家の主人が売却したという。だが、その主人は実は先日、大根を大量に盗まれた被害者でもあり、牟婁新報の敏腕記者が取材中とのことだ。間もなくいろいろわかるだろう。
毛利の落ち着いた声を聞いているうちに、冷静さを取り戻し始めた熊楠の心に、何かがある図式をなしつつあった。南方マンダラを使って、おのれの心像を描き、何かが、いままでのデータから、形が生まれつつあった。
「そうか、そうやったんか。いや、そうなのだよ」熊楠は自分でも驚くほど落ち着いた声で、毛利と喜多幅のふたりにつぶやいていた。
ふたりは顔をみあわせ、「熊あん大丈夫かい」と聞かれ、それが妙におかしく、笑い声を、それもいつ果てるやもしれぬほど長く続く笑い声をあげてしまった。ふたりは、そんな熊楠の様子をみて、いっそう心配そうな顔をしている。ついにおかしくなったのかといいたいようだ。自分の笑い声が下弦の月夜に、いつまでも響くようだった。
店の中は、京子の店よりも広い気がした。お客は奥のボックスに三人、他にカラオケを歌う、源蔵より十歳くらい上の老人の男女が四人いた。カウンターには源蔵ひとりきりだ。
サキという、京子の友人である店のママは、京子よりも若くみえた。髪は外人みたいにやや薄い金色で、淡いモスグリーンのアイシャドウを塗っている。京子よりもくだけた感じで、親しげな話し方をする。カウンターの両端のそれぞれには、花瓶があり、ふたつの花瓶に、種類の違う花が活けてあった。
もうすぐ紫陽花の季節だよ、とサキは花瓶の花を見つめていた源蔵に声をかけてきた。「そうだね、でも梅雨でもあるけどねぇ」と源蔵も微笑みがら、返事をした。
「梅雨になるとあたしらのような商売だと、カッパやむしろをびしょ濡れにしながら、外回りしなくちゃだから」
「へえ、そうなんだ、置き薬だったよね」
「そう、一軒ごとにね、回るのさ。子供のいる家には、紙風船をね、薬屋のマークのはいったやつを、宣伝かねて置いてくんだ」
奥のボックスのお客が氷とあたりめを頼んだ。振り向くと、ふたりはワイシャツにネクタイで、ひとりは作業服姿の柔道家みたいで、好色家そうな顔をしていた。ボックス席に近づくサキを、執拗な眼で見つめている。同じ好色家同士、源蔵にはその男が、サキの身体を舐め回すように見ているのがわかった。スケベ同士、ピンとくるものがあるのだ。ただ、源蔵はもう枯れ始めた年齢だけあり、サキくらいの年頃の子には、自分の子供のような父性的な感情しかわかないのだが。
老人のお客達が勘定をすませ、帰ろうとして扉の前まで歩いたときだろうか、扉が開き、ひとりの背の高い外国人女性が入ってきた。栗色の長い髪の毛をして、パンツルックで大股で歩きながら、カウンターの、源蔵の座るとなりの席についた。何時までかしら、とはっきりとした日本語でサキに訪ねたので、源蔵はその女性の顔を見つめてしまった。その女性が源蔵のほうを見たので、少し、恥ずかしさを覚え、声を出すかわりに軽く会釈した。女性も会釈を返し、無表情だった顔に、優しいほほえみが生まれた。
奥のボックス席の柔道家みたいな好色家はもちろんのこと、ワイシャツ姿のふたりの紳士達も、カウンターにいる外国女性をもの珍しそうに見ていた。他人からもの珍しく見られることに慣れているのか、奥のお客達にも、その女性は微笑みながら、会釈をした。
サキだけは客なれしているのか、外国女性客に、おしぼりをだしたり、おすすめのメニューなどを説明したりした。しばらくして、サキとその外国女性との会話を聞いたところ、日本人だとわかり、また、東京でお芝居をしている女優でもあるというのを聞き、源蔵も会話に加わり、女性の名前が、門前ルイーズ、つづめて、ルイと呼んでくれと言われた。
「じゃ、おれはゲン、って呼んでもらおうかな」笑いながら源蔵が言うと、ルイもサキも笑った。「それにしても外国人みたいにみえるよね」と源蔵がいうと、ルイの祖母も母も偶然、外国人なのだそうだ。三世と二世に外国人の血が混ざって、ルイ自身もそして兄弟もみな、白人、つまりはスペイン系の顔だちらしい。
しばらく歓談していると、奥のボックス席の客達が帰り、帰りぎわ、柔道家みたいな好色男が、サキとルイの身体を執拗に見ているのを、源蔵は横目で観察していた。
「また花田のやつ、今帰ったすけべそうな客のことなんだけど、月末のツケだと言ったんだよ。ほぼ毎日くるんで、夜逃げでもされたらたまんないよ」とサキは吐き捨てるように源蔵たちに愚痴った。
ルイは東京から昨日の夕方、和歌山県に来たのだという。田辺にある旅館に泊まり、今日の午前中、郷土資料館でここ数ヶ月の事件を調べていたら、大根の大量窃盗事件と山人犯人説が、柳田國男のブログにあるという。最近、柳田と山人の映画に協力し、柳田の知人が和歌山の田辺で民俗博覧会を始めるので、下見に来たのだ。ついでに、大根泥棒の現場を見物に来てみて、帰りがけいっぱいやりたくなり、散歩してたら、お店の看板が眼に入り、立ち寄ったという。
このあたりにキャバクラみたいのはないかな、と源蔵がサキに聞いたとき、店の扉が開き、ひとりの眼光鋭い男が入ってきた。下駄ばきに、浴衣、短髪で短い口髭、そしてくわえ煙草で、たもとに両手を入れたまま、ブラブラとカウンターまでやってきた。男はルイの顔や源蔵の顔を見ても、表情を変えることなく、自然にルイの隣の空いた席に座ると、ここにはスコッチはおいてあるかと、サキからおしぼりを受け取りながら聞いた。
スコッチウィスキーをストレートで、一気に煽ると、男は煙草に火をつけながら、ルイの顔をちらりと見て、おたくは東京で猫の芝居をやっとったね、と言った。ルイは驚いた顔で、お芝居をみてくれたのですか、と聞いた。いや、わいはね、東京へはしばらく行ってないよ。雑誌だよ、いろんな雑誌を読むので、劇団の情報が載っている雑誌で知っとった。まさか、この店にいることのほうが驚きだな、と言って笑った。
しばらく話をしているうちに、大根泥棒の話になり、源蔵もその新しい客に心引かれ、柳田先生からの依頼のことやキューブ学園のたくあんの話をしたら、短髪の男は、眼光をいっそう鋭くして、そうやったんか、とカウンターをどんと叩いた。灰皿の灰やグラスが一瞬、宙に浮いた。何が、興奮するきっかけだったのか、源蔵には分からなかったが、テトラ、キューブの名前が出たときに、今度はルイが、え、そうなんだとこれまた大きな声をあげたのだ。
サキだけが、ひとり静かに、くわえ煙草で、食器を洗っていた。水音がかえってその場の異様な空気を冷ますかのように、店内に響いていた。
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