政府主催の「昭和100年記念式典」が話題になった。
特に注目を集めたのは、高市早苗 首相の式辞と、そこに 徳仁・雅子 両陛下が列席されたことだ。
一方で、
-
「政治色が強い」
-
「昭和を美化しすぎ」
-
「高市政権のカラーが濃い」
といった批判も出ていた。
その中で、かなり興味深かったのが、
「天皇陛下がおことばを述べなかったのは、むしろ正しかったのでは?」
という視点である。
天皇は“政治不介入”である
日本国憲法において、天皇は
「日本国および日本国民統合の象徴」
とされている。
そして、国政に関する権能は持たない。
つまり、政治的中立性が極めて重要な立場だ。
だからこそ、今回のように
-
歴史観が割れる
-
「昭和」をどう評価するかで意見が対立する
-
現政権の色が強く出る
ような式典で、天皇陛下が踏み込んだメッセージを発すると、それ自体が政治的意味を帯びてしまう。
例えば、
-
「政府方針への賛同」
-
「特定の歴史観への支持」
-
「保守色への追認」
のように解釈される可能性がある。
その意味では、
「あえておことばを述べない」
という判断は、象徴天皇制の中立性を守るうえで、かなり理にかなっている。
出席はする。でも政治的発言は避ける
とはいえ、
「なら欠席すればよかったのでは?」
という意見もある。
しかし、これも簡単ではない。
「昭和100年」という節目の国家的式典に完全欠席すると、それ自体が政治的メッセージとして受け取られる可能性があるからだ。
つまり、
-
出席すれば「政治利用」と言われる
-
欠席すれば「政権への拒絶」と言われる
という難しい立場にある。
そのため今回の対応は、
-
式典には出席する
-
しかし政治的に解釈され得る“おことば”は避ける
-
必要なら宮内庁を通じて一般論として平和への思いを示す
という、極めて慎重なバランス感覚だったように見える。
「不敬」だったのか?
ネット上では、
-
「不敬では?」
-
「皇室利用では?」
-
「高市首相が前に出すぎ」
という批判もかなり見られた。
ただ、法的・制度的に「明確な不敬発言」があったわけではない。
問題視されたのは、むしろ、
-
式典の政治色
-
皇室との距離感
-
首相の振る舞い
-
昭和という時代の扱い方
だった。
つまり今回は、
「誰かが決定的な失言をした」
というより、
“皇室と政治の距離”
という、日本の象徴天皇制が抱える非常に繊細な問題が浮き彫りになった出来事だったのだと思う。
おわりに
今回の式典を見ていて感じたのは、戦後日本の皇室が、いかに慎重に「政治」と距離を取ってきたか、ということだ。
出席する。
しかし語りすぎない。
存在は示す。
しかし政治的意味は帯びないようにする。
この絶妙なバランスの上に、現在の象徴天皇制は成り立っているのかもしれない。