こんな時ですけど・・・
平成30年7月豪雨の被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。
西日本の皆様には申し訳ない気持ちですが、以前より予定していた東北被災地巡りの旅に行ってきました。
東日本大震災の津波で甚大な被害があった地域を、どうしても自分の目で見ておきたかったのです。震災から7年以上経ってしまったけど、やっと行けるようになったので長年の念願だった東北被災地へ行くことを優先しました。
当初、ツイッターで報告しようと思っていましたが、自分の心の奥にあまりにも重く残ったので「ブログ」という形にすることにしました。理由は簡単、激流に飲まれてあっという間に流れて無くなって欲しくなかったからです。それだけ重い事だから。
―――まず、一番初めに訪れたのは岩手県上閉伊郡大槌町の「旧大槌町役場」
ここが解体されると聞いていたので、何としても無くなる前に行きたかった。
テレビで何度も見ていたから知っている・・・と思っていたけど、知っていたのは表面だけで実は何にも見ていなかったと思い知らされました。
車から建物が見えた時、初めて見た時の衝撃は凄まじく、体中に電気が走ったようでした。車から降りて建物に近づくとたくさんの声が聞こえました。私は決して霊媒師などではないです。自分でも信じ難く混乱しました。でも確かに聞こえたのです。耳にではなく、脳に直接聞こえてきたのです。たくさんの人々の悲鳴・泣き叫ぶ声・囂々という津波の水の音、一つ一つは聞き分けられないのだけど、みんながハッキリと名前を呼んでいました。
それは地獄図のような恐ろしい音でした。たくさんの声が波にのまれていきました。目の前にある破壊され朽ちた建物を見ていると、人や物が流されていく様子や壊れていく様子、今まさに壊れていくという時の様子が見えました。今の中に過去も見える、不思議な光景でした。
でも今の自分にはどうすることも出来ません。ただ人々が流され死んでいくのを見ているだけでした。
とてもとても悲しくて苦しくて涙が止まりませんでした。「苦しかったね、死にたくなかったよね、怖かったよね・・・助けてあげることが出来なくてごめんなさい」
大自然の災害に対して「助けてあげる」などと言うなどとてもおこがましい事ですが、あの時の私は謝る事しか出来ないし、自然と「ごめんなさい」という言葉が出てきたのです。不思議な感覚でした。
建物の前のお地蔵様と位牌の前でしばらく手を合わせて、立ち上がれませんでした。
途中で見た気仙中学校 屋上近くに津波到達地点(14.2m)の印があります。
―――次に行ったのは陸前高田市の「奇跡の一本松」
駐車場に車を停めて歩いて向かいます。その道中には無数の黒い袋がありました。放射能汚染除去作業で出た汚泥を入れた袋です。たくさんの袋から草が生えていました。適切に処理されずに地上に置き去りの黒い袋が無数にありました。ほんの数メートル先に山積みにされている袋が数えきれないほどたくさん!本当に置きっぱなしでこれでいいの?正直言って、真横を通るのが怖かったです。線量計で測ったらどんな数値が出るのでしょう・・・?
震災前は7万本も松林があったそうです。その景色は圧巻だったのでしょうね。
でも私の目の前に見えるのは再生された一本の木、本物の木ではありません。松の木のオブジェよりも破壊されたユースホステルの残骸に目を奪われました。鉄筋コンクリートの建物が捻じれて折れていました。このユースホステルがあったおかげで松は残ったとも言われています。この二つはセットで奇跡となったのだと感じました。
町全体を作り直している陸前高田市、山側の道路は建設途中、津波を防ぐ防波堤も建設途中、間にあった町は何もなく、町の生活道路も家も一軒もない雑草だらけの荒野が広がっていました。訪れた日は37度を超える猛暑日でした。災害と言えるほどの猛暑の中で工事関係者の皆様が黙々と作業されていました。
――――南三陸町の「旧防災対策庁舎」
南三陸町も陸前高田市同様に町全体が無くなっていました。ここへ来るまでにいくつものたくさんの小さな町が全て無くなっているのを見ました。見るたびに胸が痛みました。
南三陸は大きな町です。でもやはり全て無くなってしまったのだと感じました。町の中心を流れる川の両側は大きくかさ上げする工事の真っ最中でした。その中でひときわ低い場所ににポツンと旧防災対策庁舎がその骨組みだけを残していました。元の地面はこんなに低かったのかと感じました。それだけ周りを高く盛土しています。大きくひしゃげた鉄骨は津波の破壊力の大きさを物語っているようでした。
この町で臨時に作られた商店街にある写真展示館にも行きました。津波の恐ろしさと失われたたくさんの命と生き残った命が見られました。恐ろしくて悲しいけど事実の写真です。たくさんの人に見てもらいたい大切な記録だと思いました。
―――――石巻市「大川小学校」
私は子どもが好きで保育の仕事をしています。だからここは一番つらかった。
ここでも子どもたちの悲鳴と共に泣き叫ぶ親御さんのが大きく聞こえてしまいました。
我が子を泣きながら叫び呼ぶ親御さんの悲痛な声の方が大きく聞こえました。
親を呼ぶ子どもの声・・・届かずに消えていく子どもの声・・・こんなに悲しいことはありません。
どんなに怖かったでしょう、どんなに苦しかったでしょう・・・
たとえ裁判に勝ったとしても失われた子どもたちは戻ってきません。愛する我が子を失った親御さんのお気持ちは察するに余りあります。私のような部外者が言葉にすることはおこがましいので控えさせていただき、心からお悔やみ申し上げます。
――――最後に
ここまで長文をお読みくださりありがとうございます。
冒頭にも書きましたが、私は霊媒師ではありませんし霊能力があるわけでもありません。
なぜ今回亡くなった方々の声が聞こえてしまったのか、自分でもわかりませんし自分自身が一番混乱しています。
旅を終えて自分なりに考えました。これはきっと「震災を忘れるな、自分の事として感じろ」というメッセージなのかもしれないと思っています。
自分が津波に遭っていなかったので、どこか遠い場所で起きた他人事と思っていたのかもしれません。大いに反省しています。
持病が改善してやっと被災地に行くことが出来ました。自分が出来る事は小さい事だけど、これからも被災地支援を続けていこうと決心しました。
そして、定期的に東北を訪れてみようと思いました。


