戸を開け放っているのは、家だけではなさそうだ。路地の中ほどに大学の宿舎の裏口らしきものが見えるが、なんとそこのドアも盛大に開け放たれていた。「ドアは必ず閉めてください」と書いてあるにも関わらず。その呑気さ、おおらかさを僕はとても愛おしく思った。
僕らはいつの間にか、狭い路地をくねくねと抜けて、車道に出ていた。角に小さなストアが有った。僕は友人から頼まれたアレイ型の容器に入った水がないか、店主に聞いてみる。やはりノースリーブのシャツを着た50がらみの店主は申し訳なさそうに首を振った。大通りが近くなっているのだろうか。バイクや人がひっきりなしに通って行く。ストアの前に信号が有った。
僕らはまだこの過去と現代の交錯地点の魔力に魅入られていた。ぼうっと立っていた僕は、おばさんの声に現実に引き戻された。
「ちょっと!通路の真ん中に立つんじゃないよ!」
「すいません!」
思わず僕は日本語で謝った。子供を乗せたバイクに跨ったおばさんだった。
ああ、ここは通路だったんだ。こっちによらなきゃ、じゃまだよね。僕は相棒に照れ隠ししのにやにや顔を向ける。
相棒は端に寄ってくれた。ふふふ。僕は何だか嬉しくなる。相棒の訝しげな眼が、僕に注がれる。
「怒られちゃった~♪」
僕は悪戯が見つかってクスクス笑いの小学生のように軽やかに節をつける。
そう。初めて怒られた。とっても爽やかに。今まで僕らは「観光客」だった。ガイドブック頼りにどの店に行っても、どの場所に行っても、何をしても、皆、笑顔で優しく丁重に迎えてくれた。例え僕らが無礼なことをしていたとしても、何も言わなかった。それはとてもありがたい「お・も・て・な・し」。そう「外人さん」だから、親切にしてもらっていた。きっと、僕らの数々の異文化齟齬の振る舞いに戸惑い、腹立つ人もいただろう。だけど、皆我慢してくれていたに違いない。「外人」だから、許してもらっていたんだ。
でも、ここでは違った。僕はここでは「人」だった。そう、あの瞬間、僕は普通に怒られる「この国の住人」になったのだ。だから、嬉しかった。とても心が軽やかだった。初めて受け入れられたと思った。初めて、認めてもらえた気がした。そのおばさんの正直さが、僕には本当に有難かった。
僕らは今度は人の邪魔にならないように気を付けて道を渡った。そして、小さな商店街を抜けると、そこはまさに、アリスの世界だった。夢の冒険の国から戻ったアリスは、自分の住む現代の世界に舞い戻る。車やバスがひっきりなしに走る大通りが見えて、近代的なビルや店が立ち並び、煌々とネオンサインの彩色を放っていた。いつもの僕らの良く知っている台北だった。観光客の台北だった。
数メートル先に地下鉄のマークが見えた。駅名は「古亭」。
僕らは、「僕らの見知った台北」を歩いていく。いつもの台北。現代の台北。お洒落なカフェや服の店、若者向けのケーキ屋にグルメ誌に載りそうなレストラン。
その隣に、僕らの曽祖父の、祖父の宿した記憶の街が呼吸をしていた。それは今も堅実に日常の営みを続けている。大きな銀色のビルの後ろに、その過去と現代を結ぶ交錯地点の街がひっそりと
でも、確かに体温を宿して、そこに生きる人々を温やかに穏やかに包み込んでいた。
もし、誰かに「もう一度行きたい場所は?」と尋ねられたら、僕はその名も知らぬ裏路地を挙げるだろう。
「カラン、カラン」
と軽い鈴の音がした。純也君が一軒のスタイリッシュなジーンズ屋の硝子ドアを押していた。中から、これまた現代っ子のイケメンなお兄さんが現れ、綺麗な英語で「いらっしゃいませ~」と微笑んでいた。
涼と純也の台湾旅行記・迷い家(完)~
