さて、今日は日曜日。安息日。街をすり抜け、どこからともなく降る感情を、ぐるぐると、胸の中に留まらせる。左手には缶の甘いリキュール。昼下がりの酒はおいしい。くうっと喉をすり抜ける。かたちのない塊になった白い快楽が口腔と喉を押し広げ降りていく。人差し指と中指の間には細巻きのたばこがあった。フィルターにミントオイルをたらす。華に抜けるように吸い込めば、ぼんやりと香りがする。あと2センチメートルになった。もみ消す。 右手に缶を持ち直す。傾けて口づけるとたばこのにおいが指先からする。下に乗る酒とたばこの苦みがまじる。飲み込む。
 窮屈な待機は終わり。自分で始めよう。今日は映画を見よう。

みなさんこんにちは。gonnaです。
頭が痛いなぁと友達に言ったら「放射能の影響じゃん」と言われました。笑えないけど笑える、そんな日々を過ごしています。

unsolid4号のテーマはオンナノコになりました。
あたし自身は、性(別)ってのは、百人百通りだから、なんだっていいんだけど。それでも、オンナノコってのにはちょっとアイデンティティがある。前からひっそりと書きためていた性とかオンナとかにまつわる文章をまとめたいなと思って作りました。
だから、
性に関してはめちゃくちゃセンシティブで個人的で政治的だから、あたしの文章の中にもラディカルになりきらない暴力性があると思う。申し訳ないほどの偏見もあると思う。でも、いいんだ。ライオットガールに怒られてもいいんだ(ホントは嫌)。ウエノチヅコに怒られてもいいんだ(どうでもいい)。まず、素直になるところから今を全てを始めたいんだ。

今回は初めていろんな友人に、「オンナノコ」をテーマに原稿を依頼しました。やはり、頼んだコにとっても性はセンシティブな問題だったようで、原稿書けないよーとか、書きづらかったという声をいただきもうした。それがそのコの今やし、とても真摯なところ。そんなところをまた好きになるのでした。

もう、本好きが転じて、すぐ長い文章を書きたがるあたしの癖。
はやく始めようー。

読んで、見て、何を感じるかは、自由。
悲しいけど、これを見てゲロを吐いても、知らないよ。
これを見て、あたしのこと好きになっちゃっても知らないぜ。

さて、もうどうでもいいね。
オンナノコzine、「ヒロインはいつでもロングヘアー」のはじまりはじまりーー。
ちょっと今回のPMSは手ごわかった。
生理が終わった後も尾を引いてる。
・・・ってかこれってPMSなのか?

なんだか悲しかったり死にたくなったりするPMSですが、

今回は、
お洗濯や料理をしなくなるという極限まできた。
おうちかえったら何もせずに寝る以外できなかった。

身体が重くて、心も重くて。

年々PMSひどくなるような。

友達がネイティブアメリカン流のアロマテラピーで
PMSが治ったというので明日話を聞いてみる

今日は、PARC主催のデモ。行かなかった。気づけば夕方。
いいわけは探さない。
今日は単純に、
起きて、洗濯をし、そうじをし、布団とパジャマをつくろい、バイトをさがし、絵本をかいたら、もう18時半。
今から、スーパーに行くところ。
選挙も行かないな。

こんな普通の生活も、きっとできなくなるんだろうな。
いろんなことが原因で。

とか、思う。


3月31日から、また東京に戻ってきてる。
あんなにコマめに生活してたのに、東京に戻ったら何気にのんびり。
これが自分一人のペースなんだろうね。
しかしやっぱり、余震がこわくて、めちゃくちゃびくついてる。

4月10日は実家に帰るつもりだったけど、やめた。
実家は愛知なんだけど、本当に他人事のように何の心配もなく時間が過ぎていく。

生きてて、
今じゃなくって、
いつ、デモに行くんだよ。
いつ、叫ぶんだよ。
いつ、表現するんだよ。

あたしのために。(誰だって死にたくないよ。エゴでいいんだよ。自分一人がまっとうに生きて死にたいっていう気持ちすらエゴだったら東電とか国とか経済界がやってることは何なんだ?)
ともだちのために。
今まで踏みにじってきた原発地域の人のために。
アフリカとかでウランを掘り起こす仕事や、原発内で労働してる被ばく労働者のために。
農家、漁師、酪農家の方々のために。
こんなにたくさんの人のことを羅列するのも恥ずかしいくらい自分は何もしてこなかった。
ごめんなさい。素直に。

どうせ死ぬなら、殺されたくない。殺したくない。
どうせ死ぬなら、騒いで自分が信じられることをやって死にたい。

おい国家!電力会社!経済界!
お前らの好きな「自己責任」ってのを今こそ見せてくれよ。
どうせお前らは、逃げる金も場所もあるんだろ?
危ないんなら、儲からないんなら、ちょっと引越しましょ?だろ?
高いところから見てんなよ。
謝罪も、被災地の野菜食うのも、防災服も、全部全部パフォーマンスなんだろ?
こんだけの人の命と生活と経済と自然を、破壊して、野ざらしにしておいて、何なんだよ。
今、お前らの好きな「安心安全」ってやつをいい加減くれって。
そのために存在してるんだろう(いや、ない)。
保身ばっかしやがって。

募金とボランティアであいまいにすんじゃねぇよ。
この後、資金不足って言うんだろ?で、税金出せって言うんだろう。
10年後ガンの確立が増えたって、子どもがばたばた死んだって、証拠はありませんっていうんだろ?
分かってんだよ。
お前らの常套手段だろ?
何が起きても、お前らは英国屋のスーツ着て、帝国ホテルのじゅうたんを踏んでいられるんだろ?
お前らの子どもも、海外に留学させときゃいいんだろ?
喉もと過ぎたくらいで、次世代議員に会社重役だ。

こんなことばかり考えていると、しまいには死にたくなるので、このくらいにしておこう。















☆名前
フルネイムをひらがなで。

☆肩書き
(NU☆MAN、身体とZINEを通しての表現者、ときどき上智大学
グローバル・コンサーン研究所)

☆メッセージ

いつかは死ぬんだけど、
だれだってこんなふうに殺されたくない。
だれだって自分の命を全うしたい。
だれだって笑って悲しんで死ぬまで行きたい。
今までのうのうと、被ばく労働者の人とか、
原発受け入れ地域のひととか、いろんなひとをじわりじわりと
殺しながら生きてきた自分がいることも認める。
今、しかないでしょう。
今。
デモ後だけど、4.10高円寺デモで終わらせちゃいけない。
だから、賛同から。
全てを殺す原発に反対。
遊動社サイトより
http://a.sanpal.co.jp/u-do-sha/bk/menstrualactivism.html

何で生理用布ナプキンなの?

1980年アメリカで、公式的に36名の女性が毒性ショック症候群(Toxic Shock Syndrome=TSS)という珍しい病気にかかって死亡し、1000名以上の患者が発生した。彼らの共通 点は、月経中であり、タンポンを使うということであった。
当時Procter & Gamble社は、"Rely"という吸収力が強いタンポンの無料サンプルを大量 に配るなど大々的な広報を通じて、短期的に市場の占有率24%を達成する成果 を誇示していた。Relyの市販とTSSとの関係がはっきりされた自己研究の結果 を隠して、Procter & Gamble社は抗議する顧客たちに、その関係性を否定した。
科学者たちは、タンポンに使われている吸収力が高い合成繊維がTSSを起こす葡萄状球菌の感染を高めることを明らかにした。結局FDA(調整機関)の圧力によってRelyの生産は打ち切られたが、その後FDAはタンポンの安全性についての調査と研究をタンポンを製造・販売する企業に任せてしまった。FDAは企業に対して「吸収力の低いタンポンを製造しろ」と勧告するだけで、タンポンの安全性についての責任は、使用する女性たちになすりつけた。安全な吸収力についての標準値が決められたのは、以後10年経った1990年のことだ。その10年の間に、非公式的に63名の女性がTSSにかかったと推定されている。
1997年と1999年にアメリカではタンポンの安全性と研究についての法案が上程された。これは生理用品にどのくらいのダイオキシン、合成繊維、添加剤が使われていれば安全なのかという研究を支援するために上程された。この法案はタンポンのような生理用品が子宮頚部癌、子宮内膜症、不妊症、卵巣癌、乳房癌、免疫体系欠陥、骨盤内炎症疾患、毒性ショック症候群を起こす可能性があるという前提をもとにして上程されたものだった。この法案が提出されるまでアメリカではダイオキシンと生理用品との関係について多数の論争、企業のロビーと隠蔽工作があった。今でもFDAは、タンポンのダイオキシンは極少量 なので、女性の体には全く害を与えないという。しかし、ダイオキシンは例え少量 だとしても長い間続けて接触すると体内に蓄積されて深刻な疾患を起こすことにもなる。ただ、症状が早く現れないという面 があるので、疾病の原因がダイオキシンなのか、ほかの原因があるのか、ということを明らかにすることがとても難しい。従って交信力がある非営利の独立研究機関の研究が必要とされる。今までは、全てのデータがタンポン会社自体の実験結果 に依存されている。独立した大学研究団体と市民団体につながっている科学者たちだけが次々にダイオキシンと生殖器疾患との関連性の証拠を明らかにしているが、最近やっとアメリカでタンポンの安全性研究についての法案が上程されるに至った。

使い捨て生理用ナプキンの歴史は、女性の社会進出と一緒に始まった。キンバリー・クラークが第一次世界大戦中に働く看護婦のために包帯を利用して開発したという最初の"Kotex"という生理用ナプキンの場合にしても、使い捨て生理用ナプキンが全ての女性のためではなく、働く女性のためのものだったことが解る。
働く女性にとって、月経は面倒なものなので簡単に処理できる使い捨て生理用ナプキンが登場するのはとても当然なことだった。それによって使い捨て生理用ナプキン=自由という等式が成立し、超薄型の使い捨て生理用ナプキンの登場・タンポンの大衆化に続いている。

使い捨て生理用ナプキンのCMなどで「この高分子吸収体ポリマーが吸収力をぐ~んとアップするから漏れない」と言われるように、超薄型の使い捨て生理用ナプキンは、働く女性などにとって使い勝手の良いものとして当然のように使われている。でも、この「高分子吸収体ポリマー」は、分子構造を変化させて自ら500~1000倍の水分を吸収する高分子吸収体のことで、それ自体が石油が原料の化学合成品なので、人体への影響(ムレたり、かぶれたり、子宮内膜症など)やゴミとして処理した時にでるダイオキシンも問題になっている。また、タンポンの材料である、綿花を栽培するために使っている殺虫剤も私たちが知らなければならない毒性物質なのだ。
厚生省は「直接肌に触れない部分に使用すること」として許可しているけど、膣は体の中で一番吸収力が強い粘膜だと言われている。私たちがタンポンや使い捨て生理用ナプキンを使うたびに、私たちの体はダイオキシンや殺虫剤を吸収するというわけ。もっと悪いことは、タンポンにはパルプ成分の一種のレーヨン成分が入っているそうで、レーヨン成分は科学的に毒性ショック症候群(Toxic Shock Syndrome=TSS:急に倒れて死ぬこともある病気)と膣に潰瘍を起こすことが判っている。アメリカでもタンポンや生理用ナプキンからダイオキシンが検出されて問題になった例があるように、日本製の使い捨て生理用ナプキンも人事ではないんじゃないの?

~使い捨て生理用ナプキン=自由?~
使い捨てナプキンは一度使ってそのまま捨てられる。洗う手間もはぶける、というわけ。それを考えれば、洗って何度も使う生理用布ナプキンはずっと不便かもしれない。でもこの不便さというのは、単に使い捨て生理用ナプキンの便利さからきているだけで、その便利さは月経が非日常的に認識されているから、ではないかと思う。下着や食器などは使った後は洗って何度も使うことが日常的だとすれば、生理用ナプキンを洗って何度も使うことも当然日常的になり得る。にもかかわらず月経を不便に感じ、生理用ナプキンを洗うことも不便だということは、個人が自由に毎日を生きられないように、日常的にも権力中心のシステムを密かに強いられているからではないだろうか。 また広告は、使い捨て生理用ナプキンとタンポンを「真っ白」というように、その清潔さや衛生性を宣伝する。その清潔さや衛生性の裏には月経は汚いこと、隠さなければならないことという意味が内包されてもいるのではないだろうか。そこには自由というよりも、月経がある人間に対する抑圧的イデオロギーが存在している。

参考/ Blood Sisters Korea
ゼロオプション

という言葉が好きです。

何もしない、という選択肢。
逃げる、という選択肢。
放棄する、という選択肢。
捨てる、という選択肢。

そうすると、もっと自由になれる。

捨てたり、逃げたり、することはとっても怖いことだけれど、
捨てることが怖いのは、
そのものがなくなることによって起きる「日常の変化」だと思う。
でも、
それを捨てることによって
「なにをしよう」
と考えることだってできる。

何もできなくても、
クリエイティブになれなくても、
誰かに泣きついて、甘えて、寄りかかって、命をつなげばいいと思う。

だから、

ゼロオプション

という言葉が好きです。

あたしに大きな勇気をくれます。
イルコモンズのふた

この怪物から、目をそむけないで、はっきりと見るがいい



もうけてなにがわるい、という、そのとおりだ。
 他人の不幸を踏み台にして肥ったりせず、
 人間の弱点につけこんで売り上げをのばしたりもせず、
 ぼくらの暮しに役立つ いい品だけを作ったり、
 売ったりしているかぎり、もうけてわるいはずがない。
 そんなふうに考えて、仕事をしている会社や人間だったら、
 大いにもうかるのが、ほんとうなのだ

 しかし、いま、そんな会社や人間が、
 どれだけあるというのか。

 ひとの暮しに役に立たなくても、
 人の暮しをダメにすることがわかっていても、
 売れさえしたら それでいい、
 売れるためなら、どんなことでもする、
 そんな会社や人間ばかりだ。

 そんな会社や、そんな会社の後押しをした政府が、
 いま、日本の繁栄をつくりあげてやったのは、
 じぶんたちだ、と胸を張っているのだ。

 そうなのか、ほんとうにそうなのか。

 それなら、見るがいい。
 そんな企業を後押しにしてきた政府よ、
 見るがいい。

 誇らしげに、君たちが作り上げたという、
 その世の中を 目をそむけないで、
 はっきりと見るがいい

 繁栄とは、なにか。
 ゆたかな暮しとは、なにか。

 君らが狂気のように作り出す工場の煙で、
 ぼくらの空は、いつも重たく曇ってよどみ、
 君らが平然と流し続ける廃液のために、
 ぼくらの川と海は、いつも暗く腐って流れようとはせず、
 君らの作ったものの出すガスのために、
 ぼくらの木と草は、夏に枯れて、春にも花をつけない。

 君らのために、ぼくらのまわりから、緑は失われ、
 君らのために、ぼくらはいま、ちっぽけな土地に、
 ちっぽけな家を建てる望みさえ絶たれ、
 君らのために、ぼくらはいま、
 食卓にのぼせる魚にも毒はないかと心を痛める

 しかし、悔しいことだが、
 こんなひどい世の中にしてしまったのは、
 君らだけの罪ではなかったのだ。
 悔やんでも悔やみきれないのだが、
 君らが狂ってしまって、血眼になって、
 もうけだけに走るのを、だまって見ていて、
 止めようとしなかった、ぼくらも狂っていたのだ。

 ぼくらは、もうずいぶんと長く生きた、
 ぼくらは、もういい、
 ぼくらは、もうどうなってもいいのではないか。

 ぼくらは、自分のこどものために、
 そのまた、こどものために、
 ぼくらだけは、狂った繁栄とわかれて、
 そこへ戻ろう、そこから出直して、
 ぼくらは、じぶんのつくった罪を、
 自分の手であがなってゆこう。

 ぼくらの暮しをおびやかすもの、
 ぼくらの暮しに役立たないものを、
 それを作ってきたぼくらの手で、
 いま、それを捨てよう。

 花森安治
イルコモンズのふた  ECD「ぜったい、つくるぞ、3人目」


金曜の夜、渋谷に映画「ANPO」のトークに行く前に立ち寄った喫茶店で、あみものをしている女性をみた。普段はあまりそういう言葉を使わないのだが、「エレガント」だと思った。いま、この瞬間、この数日、ぼくらがいてもたってもたまらず、やっていることは、それがなんであれ、あとで、「あのときにやっていたこと」になる。そしてそれが、自分が本当はどういう人間なのかを確かめる「なにか」になる。あみものをはじめる人、彫刻を彫りはじめる人、花を植える人、種をまく人、油絵を描きはじめる人、長編小説にとりかかる人、交響曲をかきはじめる人、楽器を練習しはじめる人、スケボーの練習をしはじめる人、いろんな人たちがいろんなことにとりかかる、自分の生き方として、自分の人生として、そして、自分が自分でありつづけるために。自分は負けず嫌いで、しかも向こう見ずなところがあるので、未来を肯定するために、なるべく時間と手間のかかることを、いまからはじめようと思った。それはたぶん、いましなくてもいいことなのだが、それが、いましかできないことだと思った。具体的に何をはじめるか、それをかたっぱしからリストアップしていくなかで、たとえば、「こどもをつくること」はそのひとつかもしれないと思ったが、それはECDがやってくれるので、自分は別のものをつくることにした。というか、もうはじめた。でも、まだ、うまくいかない。でも、やれると思う。


岡本太郎「人間全体のために」
http://illcomm.exblog.jp/13170843/