人生において
「やりたいこと」は
とことんやればいいはずなのに
大人になって
ソレに挑みたいと思っても
『なんかできない』
に、陥るのは何故だろう?
なんとなく周りに合わせ
体裁を保ってきた
ちんぷな民主主義に加担した顛末か?
右に倣わされる教育とか?
なんかわからん
カタカナの化学表記みたいな
知らん存在が入っている
食べ物を
これまた知らずのうちに
口に含んだ習慣から?
・・・
出来上がってしまった産物だろうか?
まあなんのせいにも出来るけど
そこを超えていくには
ちょっとした習慣を変えることが
きっかけになっていくんだと思う
例えば
お菓子はやめて
ちょっと走ってみるとか
1Pでいいから
読みかけの本を進めるとか
そういった
簡単そうな、些細なコト。
が
簡単で些細であるからが故に
いかに難しいか?
でもやってみた後の体感や
それを積み重ねたあとの景色は
新しい感覚があったり
ソレに伴う発見に触れて
喜びに繋がるんだと思う
だから
本当は行動したい
と、言いながら現状を変えられない
という意識にフォーカスするのではなく
実際の日常を少し変えてみたり
行動したいところの準備でもいい
なにかの1歩を進めることで
ソレがラクなのかムズイのか
その体感を取っていけばいいんだと思う
したいとするの境界線にあるのは
小さな行動と体感だけど
ソレを取りに行く意識を持つこと
はじめから壮大な大変さを
壮大な妄想としてなぜか?
意識していたけど
大変なのか簡単なのかはその次の話だよね
したいな~ → するッ‼(した)
へ、行くには
そこの小さな境界線を越える意識
笹井が過ぎて氣づかないくらいな
「したい」と思う氣持ちから
「する」ことで得た感覚の違い
この積み重ねであって
それでしかきっと
自分の人生においての手ごたえって
感じられないんだと思う