27年前の1月17日未明、阪神淡路大震災が発生した。夜明け前にどしん、どしんという感じでいきなり大きな縦揺れが来た。こんな揺れは、人生で初めての経験だった。
とりあえずテレビを点けたところ、神戸市を中心にした一帯が震源のような感じだった。とにかく布団から出て、大阪に向かおうとしたが電車がろくに動いてもいなかった。
普段なら京阪電車で、小1時間で到着する大阪・淀屋橋まで、2時間ほど掛かってたどり着いた。地下鉄も止まっていたので階段で地上に出たら、シーンと静まり返っていた。
不気味なほど静まり返った大都会がそこにあった。淀屋橋の駅の近くにある「美津濃」のビルのガラス窓がすべて割れ、分厚いガラスの破片が地上に降り注いでいた。
27年経った今でも、はっきりとその光景を覚えている。いや、忘れられないでいる。バスがやって来たから、とりあえず事務所の最寄りのバス停まで行ってみた。
事務所が入っているビルは、一見したところ無傷のように見えた。しかし、事務所の中は手のつけようもないほど、当たり一面にモノが散乱していた。
それから27年という月日が流れた。11年前には東日本大震災が起きた。その時、身重だった娘は孫を連れて我が家に避難してきた。その後に生まれた孫も、小学4年生になった。
一昨日は、南太平洋のトンガで大規模な海底火山の爆発が起きた。その時には、津波の心配はないと気象庁が宣言していたけれど、数時間後には日本でも津波が起きていた。
これも前例がないことらしい。トンガと日本の間にある、グアム島やサイパン島では津波が起きていなかったらしい。それが、予想よりはるかに早く日本で潮位の上昇が起こった。
トンガは親日国である。ラグビーが盛んで、日本のチームにもトンガから多くのラグビー選手がやって来ている。自分たちの家族や親戚の安否などが心配だろう。
東日本大震災では、トンガのツポウ国王などが手を差し伸べてくれた。今度は日本が積極的に手を差し伸べて、恩返しの支援を行うときだろう。
先般も、日本の領海内の海底火山の噴火で発生した〝軽石〟が、日本の沿岸に大量に流れ着いて、港の機能や漁船などに被害をもたらしたばかりだった。
それにしても、こうした災害はいつ起こるかわからない。けれど、必ず起きるということだけは言える。人知を超えた出来事というしかない。
こんなに色々なことが立て続けに起きていると、つい忘れてしまいそうになるけれど、私にとって、昨年の1月に抗がん剤治療のために入院してから早くも1年が経過した。
昨夜、布団に潜り込んだものの、眠れないままに、走り書きのメモで1年前の入院のことを書き留めていた。1年前は、まさに抗がん剤の点滴を受けている最中だった。
この点滴は100時間余り連続で行うものだった。だから1回の入院で、4泊5日に亘る点滴を受けた。こんな経験は、もちろん初めてのことだった。
ただ私の中では不思議なくらい、こうした事態が異常なことだとか、大変な出来事だとかは感じていなかった。
むしろ初めての体験だからこそ、この長時間連続した点滴に耐えられたのかもしれないと思う。ガンを発病したのだから、こんなことは誰もが経験するようなことだと思っていた。
もっとも、こと食べることに関しては、1回目の入院で点滴を受けている途中から、徐々に異常な〝感覚〟が現れ始めた。嗅覚や味覚が、明らかに変化を始めたのだ。
食事が運ばれてきても、その食べ物の匂いが嫌で口に入れられないとか、何とか口に入れても、その食べ物が今まで知っていた味とは全く違う気がして飲み込めなかった。
点滴開始3日目くらいからは、こちらが指定できる特別食をお願いして、何とか食べられる〝素うどん〟であったり、食パンのトーストだけだったりという具合になった。
副食類がまったくダメになり、ご飯も喉を通らない状況になった。初めて退院して家に戻っても、なかなか食べられるものが見つからなくて、家人にも随分迷惑をかけた。
こうして、4月まで4回繰り返した入退院で、体重はとうとう10㎏近く減少した。長らくメタボ体型だったのだが、お腹周りが一度は随分とすっきりしてくれた。
こうして、昨年1月の今ごろは、病院のベッドでひたすら点滴のチューブを見上げながら、寝っ転がっている生活だった。それから早くも1年が経過した。
今年の元日には、京都市内にある因幡薬師・平等寺まで、昨年の正月に授かったお守りを返して、新たなお守りを求めるために出掛けた。
そして今日の午後は2時間足らずの散歩として、「京都十二薬師霊場」のうち、市内の真ん中にある「来ぬか薬師・薬師院」と「菩提薬師・大福寺」へお参りに出掛けていた。
それぞれに〝由来〟はたっぷりあるけれど、それはさて置いて、まず足を鍛えたいと思うから。面白かったのは、古くから「薬師院」がここにあるから、周辺に薬関係の店が多い。
薬師院のある二条通り界隈は、漢方薬屋さんであったり、薬品の卸屋さんであったりと、今に至ってもなお京都の薬問屋さんの町になっている。
また、「大福寺」は縁起の良い名前だからと、商人が使う帳面の表紙に、今で言う「御朱印」のように、このお寺の手で書き入れてもらっていたのが「大福帳」の起こりだという。
まあいずれにしても、初入院から1年経った今は、この程度に元気に暮らせていることに感謝しなければと思う。